「血判を押すとき、そばの女性が指先を切り…」徳川宗家当主が磯田道史と語る家康の“女性観”
強みは「好奇心」
磯田 ここまで家康の人物像について話してきましたが、さらに「弱い家康」がなぜ天下人になれたのかについて考えたいと思います。 私は、キーワードの一つは「好奇心」だと思います。保守的なイメージのある家康ですが、実は好奇心がすごい。さらにその好奇心を、しっかり自分のために活用できたから滅びなかった。 例えば、天正2(1574)年、浜松の浜辺に明の船が漂着したことがありました。これを聞きつけた家康は、船に乗っていた中国人をすぐに呼び寄せ、銭と糸の貿易を始めた。家康が武田軍に三方ヶ原の戦いで大敗を喫して、まだ一年ちょっとしか経っていない時期です。中国人は、浜松で当時の先端医療を広めました。家康自身、背中にできた瘤(こぶ)を外科的に切除しています。諸説ありますが、執刀医は中国人だとする史料も残っています。
「ミカンなら俺のところにもある」とマウント
徳川 まったく保守的ではないですよね。それから、応仁の乱以前の日本は、海外との貿易に熱心でしたが、戦国時代に突入すると規模が縮小してしまう。家康は、その復興に目を向けていましたね。 磯田 ほかの戦国武将と比べても、各段に視野が広かった。家康に京都から「九年母(くねんぼ)」というミカンが送られてきた時のエピソードも興味深いです。「九年母」は、沖縄よりも南側で作られた、当時最高級の果物です。家康はこの貴重なミカンを、関東の北条氏直に届けました。外交用として使ったのです。すると「九年母」を知らない氏直は伊豆半島も全部支配下に置いているから「ミカンなら俺のところにもある」と、領地で穫れた普通のミカンを家康に送り返し、“ミカンマウント”を取ってきた。当時のミカンは、品種改良されていないから、すごく酸っぱいんですが。 徳川 それは面白い。 磯田 そのミカンを受け取った家康は、氏直は若いにしても家老たちは大丈夫なのかという意味で「粗忽」と書いています。要するに「北条も長くは続かないだろう」と。好奇心が強くない家は滅ぶんです。実際、その後すぐに、北条氏は秀吉と家康によって倒されます。 その他にも、家康が鉛筆や時計、さらに眼鏡も使っていた、という話が残っていますが全て事実。強い好奇心から、世界中で最も良いもの、役に立つものを探して、自分の力を高めることができたのが家康の面白さです。 徳川 まったく同感ですね。信長や秀吉も好奇心が強いイメージですが、家康の場合は、好奇心がある上に周りの人の言うことをよく聞くんですよ。最初の活版印刷だって家康がやっていますよね。イエズス会の宣教師や朝鮮からもたらされた技術を使って、活字印刷をすすめ、多くの書物を出版しています。ただ、漢文を読める人が少ない時代ですから、あまり需要はなかったようですが。 磯田 先見の明がありすぎたんですね(笑)。日本に漂着してきたイギリス人航海士の三浦按針には、関ヶ原の合戦を用意している時期に「お前が乗ってきた西洋帆船のミニチュアを作れ」と命じている。彼には「北方航路を開発しろ」とも命じていますね。まだ北米大陸の形もはっきり分かっていなかった時代に「北方の海を越えればヨーロッパに行けるかもしれん」と家康は言っている。凄まじいことです。