遺骨は海を越えて――日系ブラジル人の葬られ方から考える「墓を守る」意味
「日本人と認めてもらってないもん」
最後にやってきたのは、かつて「ブラジル人街」とまで呼ばれた古びた団地。そこに住む日系ブラジル人2世の男性、中村カツミさん(69)は4年半前、40年以上連れ添った奥さんを病気で亡くした。夫婦はカトリック教徒なので、浜松市内の葬儀場でおこなった葬式には、比嘉神父を呼んで祈りを捧げてもらったという。 同い年の日系ブラジル人の奥さんとは、50年前に「イグアスの滝」で知られるブラジル・パラナ州で出会った。当時、中村さんは軍隊勤めで、奥さんは教師の資格をとったばかり。文通から、恋愛に発展して結婚した。2人の子どもをもうけた。 亡くなった奥さんについて聞くと、中村さんは「よくしゃべる明るい性格だった」と目頭を赤くした。あとで、奥さんと仲が良かったという女性に聞いたところ、「知り合いが多く、顔の広い人だった」と話していた。 中村さんは、長野県出身の父と長崎県出身の母との間に、12人兄弟の6人目の子どもとして、サンパウロ州の片田舎で生まれた。トウモロコシや大豆、綿などを栽培する農家を営む家庭で、子どものころは「裸足で学校に行くくらい貧しかった」という。 1年間の軍隊勤めを終えたあと、中学を中退していた中村さんは働きながら大学を卒業した。その後、建築関係の資格をとり、ブラジル有数の都市リオ・デ・ジャネイロに建築設計の事務所を開いた。毎週末のように家族旅行に出かけられるほど繁盛していたという。だが、ブラジル経済の悪化をきっかけに、20年ほど前に日本に渡ることを決意した。 日本では、自動車のマフラー工場などで働いた。奥さんはブラジル人の子どものために、学校で日本語を教える仕事に就いた。給料が入ると、やはり夫婦そろって、旅行に出かけたという。ところが、中村さんが定年になろうというときに、奥さんの病気が見つかった。ガンだった。 「妻は死ぬ前、ブラジルに戻りたいと言わなかったが、『母の墓に一緒に入りたい』とは言っていた」。最期は団地で見とり、浜松市の火葬場で遺体を焼いた。遺骨は自宅に5~6カ月くらい置いた後、ブラジルに運んで、もう一度葬式に出した。そして約束通り、奥さんの母が眠る墓に納めた。 日本からブラジルまで約25時間。めったに帰国することはないといい、中村さんはそれから取材時まで、帰国したのは一度だけ。「墓は、妻の実家が見てくれている」。今も別の工場で働きながら、細々と一人暮らしを続ける中村さんは、自分がどこで死ぬかや墓の場所を決めかねている。 「迷って、迷って……だってボクたちは日本人と認めてもらってないもん。なんぼあとから、日本の永住資格をもらっても、やっぱり外国人だよ。その壁がなければさ、ボクじゃなくても、他の人も『もう帰らない』という人たちもたくさんいるよ。だけど、やっぱり向こうに行ってしまうだよ」 少子高齢化や非婚化などの影響で、日本人の墓に対する意識は変化しつつある。第一生命経済研究所が2009年におこなった調査によると、5人に1人は「お墓はいらない」と答えた。また、血縁のない人と一緒に入る「合葬墓」や、山や海で遺骨をまく「散骨」を容認する人が増えており、先祖と同じ故郷で埋葬されるという価値観は薄れてきているという。同時に、「墓を守る」意識も薄れてきているのだろうか。 私はこれまで、「墓を守る」のが当たり前という感覚だったが、家族・宗教・故郷への思いなどから、いろんな考え方があった。「墓を守りたいのか。守らないといけないのか」。ブラジル人たちに重ねて見えてきたのは、自分の中にある「揺らぎ」だった。そんな複雑な思いを胸に、私はこの夏も墓参りをする。 (この記事はジャーナリストキャンプ2015浜松の作品です。執筆:山下真史、デスク:田中輝美)