軍人・西郷隆盛を育んだ、薩摩藩独自の「郷中教育」の実態とは?
NHK大河ドラマ『西郷どん』は、放送第2回目にして、BSでの『真田丸』の視聴率を上回るほど、世間の注目を集め、好評な滑り出しを見せています。鈴木亮平の演じる青年期の西郷隆盛が登場し、農民たちの惨情に涙するというエピソードがドラマチックに描かれました。 さわやかに、仲間との絆を深めていく様子の演出に欠かせないのは、ドラマにも登場する「郷中(ごじゅう)教育」です。軍人・西郷の人格の形成の基礎となった教育システムとは、どのようなものだったのでしょうか? 大阪学院大学経済学部教授の森田健司さんが解説します。 ※この記事は連載【西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」】(全5回)の第2回です。
歴史的「偉人」を作った郷中教育
人は教育によって、どのようにでも変わる。歴史的「偉人」を作り上げたものも、彼らが受けた教育に他ならない。 西郷隆盛はどうだろうか。彼も、また例外ではない。西郷が生まれた江戸時代後期の薩摩藩には、郷中教育という、他藩にはみられない独自の教育システムがあった。これは、同一地域内(郷中)に住む幼児から青年以上を年齢によってグループ分けし、それぞれに自律性を付与して、能動的に学ばせるしくみである。 具体的なグループ分けは、概ね次のようなものだった。 ・稚児(ちご)・・・小稚児(こちご):6、7~10歳・長稚児(おせちご):11~14、15歳 ・二才(にせ)・・・15、16~24、25歳 ・長老(おせんし)・・・24、25歳以上 郷中教育の核となるのは、「二才―長稚児―小稚児」の三集団である。長老は、基本的に郷中の相談役だった。 「二才―長稚児―小稚児」のそれぞれは、自律性を持つものの、下位集団は上位集団に絶対服従を要求される。稚児に対しては、書物の師匠が学問の教育を担うが、基本的に、それ以外は稚児同士での研鑽が教育の中心だった。特に、肉体の鍛錬は、できる限り彼ら本人たちに任せられ、無理な場合にのみ、上位集団の力を借りるのが普通だった。 二才になると、この自律性は更に高まる。肉体の鍛錬のみならず、学問についても、今でいうゼミナールに似た形式で、書物の輪読や議論中心で進んでいった。 この郷中教育の実質上のトップは、二才頭(にせがしら)である。二才頭は二才の中から選ばれるが、西郷は弘化3(1846)年、19歳のときに下加治屋町郷中の二才頭に就任した。郷中のことは郷中で解決するのが掟であり、二才頭となった者は、郷中の生活全般を監督することとなる。西郷は、ここで深い愛郷心、連帯意識、問題解決の方法などを学んだと考えられている。