紙芝居で語り継ぐ惨禍 「武州丸と平和を考える会」代表の幸多さん 徳之島町
多くの日本国民が戦渦に生命を散らせた太平洋戦争の終戦から79年。戦中の惨禍を伝える語り部が減少する中、鹿児島県徳之島では太平洋を一望できる徳之島町亀徳のなごみの岬公園で民間有志によって続けられている慰霊祭がある。戦時中に同島の学童や住民らを乗せて航行中、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した疎開船「武州丸」の犠牲者を悼む「平和の夕べ」。主催する「武州丸と平和を考える会」代表の幸多勝弘さん(72)=同町亀津=は「記録を残すだけでなく、戦争の悲惨さや家族を奪われた悲しみの記憶を語り継ぐ必要がある」と訴える。 武州丸は本土に向けて航行中の1944年9月25日、十島村中之島沖で米軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。徳之島町亀徳、井之川、山、尾母集落の学童や女性ら148人が犠牲になった。 幸多さんは元教員。現在は亀津北区の区長を務めている。武州丸のことを知ったのはふるさとの徳之島に赴任した39歳のころに読んだ新聞記事がきっかけだった。「既に遺族の高齢化が進み、数々の慰霊祭の存続が危ぶまれていた。誰かが受け継がなければという思いが生まれた」と当時を振り返る。 幸多さんが武州丸の語り部としての活動を始めたのは2007年。「武州丸と平和を考える会」を立ち上げ、高齢化が進んでいた遺族会と10年まで慰霊祭を共催した。高齢化で遺族会が解散した後も「平和の夕べ」に改称して有志で慰霊祭を続けている。 幸多さんは活動の中で数多くの遺族と交流。そのうちの一人に名城秀時さん(故人)=同町亀徳=がいた。名城さんは武州丸に乗っていた妻や子ども、兄弟など肉親7人を同時に失った。戦時中は国民学校の教員として疎開を推進する立場にあった名城さんは「軍国主義の先棒を担いで子どもたちを戦場に送ってしまった」と後悔し続けていたという。 遺族らとの交流を通じて「当事者にとってはまだ戦争は終わっていない」という思いを強くした幸多さんは、11年に生存者や遺族への聞き取り調査を基に武州丸の紙芝居を完成させた。紙芝居では名城さんの思いや生存者の証言なども紹介。幸多さんは「当時を知る人の生の声で戦争の悲惨さ、家族を奪われた遺族の怒り、悲しみを伝えたかった」と制作時を振り返った。 武州丸の語り部を続けてきた幸多さんにとって気掛かりな動きがある。政府が台湾有事を念頭に検討を進めている沖縄県・先島諸島からの避難計画だ。 「有事に安全に避難しようという考え自体が間違っている。国民を守るという大義名分の下でどれだけの民間人が犠牲になったのか忘れてしまったのか。今は戦争をなくすための努力が最も重要なはず」と警鐘を鳴らす。 来年は終戦から80年となる。戦時中の記憶の風化が進む中、幸多さんは「先の大戦を経験した人がいなくなりつつあるからこそ、当事者の声を直接聞いた私たちが次世代に語り継ぐ責任がある」と決意を新たにし、「平和は誰かから与えられるものではなく今生きている私たちが築くもの。私たち自身が過去から正しく学べているか、戦争から目をそらしていないか、改めて考えてほしい」と思いを語った。