23歳で未亡人に・・・。それでも徳川のために生きたファーストレディーの人生
学校の教科書で習う偉人たちのほとんどは男性偉人。しかし、日本の政治史に変化をもたらす活躍をした女性偉人も多数存在しています。そんな日本の歴史上の〝ヒロイン〟ともいえる偉人の活躍について紐解いていきましょう!【歴史人Kids】 ■将軍の妻は何と呼ばれていた? 江戸時代の将軍、つまり徳川将軍の妻のことを、何と呼ぶかご存じでしょうか? そう、御台所(みだいどころ)といいます。むかし、身分の高い人が食事のときにつかった台盤(だいばん)というお膳(ぜん)を置いておく「台所」から来た言葉です。それが貴人の奥方(妻)という意味に転じて、源頼朝の妻である北条政子が「御台所」と称されてから、将軍の正室(正式な妻)をあらわすものになりました。 御台所に選ばれるのは高貴な人でなければなりませんでした。そのため京都の最高位の公家(くげ)や天皇の兄弟にあたる親王(しんのう)の家の娘、および皇女(こうじょ=天皇の娘)だけという決まりができ、慣例(かんれい)になっていました。 ただし、例外もありました。それが11代将軍・家斉(いえなり)の正室・広大院(こうだいいん)、13代・家定(いえさだ)の正室・天璋院(てんしょういん)です。この二人は大名の島津家の姫でした。 しかし、将軍家と外様(とざま)の大名家では身分に差があるため、摂家(せっけ)をつとめた近衛(このえ)家の養女になってから結婚しています。なお、この二人はともに「篤」(あつ)と名乗っているため、どちらも篤姫と呼ばれますが、今回ご紹介するのは13代将軍・家定の正室の天璋院です。 天璋院は、最初の名前を「一」(いち)といいました。それから篤子(篤姫)、敬子(すみこ)となり、天璋院と名乗ったのは夫の死後から。ただ、ここでは広く親しまれる篤姫で進めたいと思います。 ■篤姫の本当のお父さんは? 篤姫の生まれは、いまの鹿児島県(かごしまけん)にあたる薩摩(さつま)です。父親の島津忠剛(ただたけ)は、藩主の島津斉彬(なりあきら)の従弟(いとこ)でした。斉彬は忠剛に頼み、篤姫をもらって養女(ようじょ)としたのです。その目的は、自分の娘(篤姫)を将軍の正室に送り込むことで幕府とのつながりを強め、斉彬が政治的な影響力を高めようとしたとされていました。 しかし、もともとこの縁談(えんだん)は幕府のほうから持ちかけたものとされています。その理由は家定には2人の正室がいたのですが、立て続けに死去してしまったためです。そのため、お武家(大名の家)の出身の女性のほうが丈夫(じょうぶ)で、元気な子を産むのではないかと考えたといわれます。 また家定自身も体が弱く、なかなか子どもに恵まれませんでした。そのため、11代・家斉に嫁いで子を産んだ広大院の例にならってのことともいわれます。 こうして篤姫が江戸城へ輿(こし)入れしたのは安政3年(1856)、篤姫21歳の時のことでした。家定と篤姫は、仲の良い夫婦だったようです。犬好きだった篤姫ですが、家定は犬がきらいだったと聞いて、代わりに猫を飼っていたようです。江戸城の大奥には、その猫を世話する女中までいたそうです。 ■23歳の若さで未亡人(みぼうじん)に ところが、二人が夫婦だった時期はあまりにも短かいものでした。2年後の安政5年(1858)、家定は35歳のわかさで病死します。23歳で夫を亡くした篤姫は未亡人(みぼうじん)となり、このときに出家(しゅっけ)して「天璋院」と名乗ったのです。薩摩藩からは薩摩へ戻ってくるよう声がかかりましたが、天璋院は拒否(きょひ)。江戸城にとどまり、14代将軍・家茂をサポートします。 そして慶応4年(1868年)、その薩摩藩を中心とする明治新政府の軍勢が江戸城にせまります。すでに大政奉還(たいせいほうかん)で、15代将軍・慶喜(よしのぶ)は江戸城を立ちのき、上野で謹慎(きんしん)していました。篤姫は、和宮(かずのみや=14代将軍・家茂の未亡人)とともに、新政府軍に対し、徳川家の救済と慶喜の助命をねがう手紙を送ったのです。 新政府軍の中心的な人物に、かつて斉彬を主君とあおいだ西郷隆盛(さいごう たかもり)がいました。斉彬の娘である篤姫からのねがいは、西郷たち薩摩の者たちの心を動かしたようです。西郷は江戸を戦場にすることなく、「無血開城」を条件に江戸に入りました。このとき江戸が戦場になっていたら、町は焼きはらわれて、いまの東京の町はなかったかもしれません。 篤姫もおよそ12年住んだ江戸城大奥を退去(たいきょ)して、その後も東京赤坂の徳川屋敷で暮らしました。まだ幼かった徳川家の16代目・徳川家達(いえさと)に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなどの面倒をみていました。けっきょく、故郷の鹿児島には戻ることはなく、明治16年(1883年)に49歳で亡くなりました。篤姫は上野の寛永寺にある夫・家定の墓のとなりに、いまも眠っています。 江戸時代の武士の本分(ほんぶん)が、主君に仕え、忠節(ちゅうせつ)を尽くすことにあったとすれば、篤姫も女性でありながら、最後まで徳川家の人間であろうとしました。そして、徳川幕府がなくなったあとも、徳川家という「家」を守るために働き続けたという点で武士の務めをはたしたといえるのではないでしょうか。 ※この記事は【歴史人kids】向けの内容です。
上永哲矢