「小僧」上がりで「兜町の天皇」へ 太っ腹で厚い人望 遠山元一(上)
豪勢な鈴久とわびしい小僧生活
日興証券の創業者、遠山元一は豪農の家に生まれ、高等小学校を卒業すると、 遠縁に当たる水野錬太郎邸に奉公に出される。水野はのちに内務大臣を務め 官僚として最高峰を極める人。明治38(1905)年、15歳の時、兜町の最有力仲買、半田庸太郎商店に住み込む。またいとこに当たる遠山芳三(遠山証券創業者)のつてで半田のもとにわらじを脱ぐ。半田は兜町でも五指に入る有力仲買で「独眼龍」と呼ばれ兜町をにらみつけていた。同時にそのころ兜町で人気の「鈴久」の機関店としても知られていた。 日露戦争に勝利して株式商品相場が大暴騰、当時の株式指標、東株の1000 円大台突破説がまことしやかに広言されていた時で、鈴久人気の絶頂期。当時 の新聞はこう伝えている。 「このごろ株で大儲けした鈴木久五郎氏は8000円の指輪を細君に買ってや った。一日、実業家のチャキチャキが東京倶楽部へ集まっているところへ、宝 石屋が指輪を売りに来た。その価8000円というので誰一人として手を出す者がない。ところが、にわか分限の久五郎は、『よし、おれが買う』と言って引き取った」(万朝報) 当時の8000円は現在の貨幣価値に直せば、1000万円近い大金である。そんな豪勢な鈴久のおごりの話が元一の耳に入らないはずがない。みずからのわびしい小僧生活に照らして「今にみていろ」と奮起させたことだろう。
人使いの荒い荒い兜町で鍛えられた
そのころ兜町のしきたりで、小僧は月6銭の庄屋代のほかには小遣い銭は1 銭もなかった。元一の給料は、「お前は背が高いから」という理由で1円50銭 に決まったというからのんびりした時代である。ひとの5割増しの給料をもら うのはいいとして、毎晩最後まで起きていなければならなかったそうだ。 当時の元一の小僧振りについてはこう伝えられている。 「もともと兜町は人遣いの荒いところである。生き馬の目をぬくというほど さびしい町である。なさけ容赦のあろうはずがない。食うか、食われるかの勝 負に命を賭けて闘う激しい町である。田舎からポッと出の少しのんびりしたお 坊ちゃんは、どんなにまごついたことだろう。あまりにも刺激が強過ぎた。……しくじったといっては鉄拳が飛ぶ。どこの小僧もくたくたに疲れ、夜は布団をかじって1人で泣く悲しい目を味わって鍛えられていくのである」(牧野武夫著「遠山元一」)
■遠山元一(1890~1972)の横顔 明治23(1890)年、埼玉県比企郡川島町出身、15歳で兜町の半田商店に入り、2、3の仲買を転々、大正7(1918)年、欧州大戦景気の真っ最中に独立して川島屋商店を創業、同9年株式会社化、その直後に襲来したバブル崩壊も乗り切る。昭和金融恐慌下でも健闘、昭和19(1944)年、戦時下の企業整備で日興証券と合併、日興証券の社長に就任、同27(1952)年に会長。日本証券業協会連合会の会長として戦後日本の証券界の近代化に尽力し、「遠山天皇」と呼ばれた。ふるさとに遠山記念館を設立、国内外で収集した美術品を展示している。川島町名誉町民