和田誠さんが妻の平野レミさんから「愛情が足りない」と怒られた理由
200冊以上の著作を残したイラストレーターの和田誠さん。装丁やイラストのお仕事も加えると枚挙にいとまがありません。しかしながら、ご自身やご家族について書いた本は決して多くありません。そんな“めったに自分を語らなかった”和田誠さんが、家族や仕事、趣味、交友関係などについて書いた貴重なエッセイ『わたくし大画報』を42年ぶりに復刊することとなりました。その中から和田誠さんだから書ける妻・平野レミさんとのエピソードや知られる一面を抜粋して紹介します。 【和田誠さんが描いた飼い猫や子どものイラストはこちら】 ● わが家の猫「桃代」 わが家に猫が来た。 妻はこの猫の種類をアビタシオンだと言う。高級マンションのような名前の猫だなあと思ったが、よく聞いてみたらアビシニアンというのであった。そう言えば結婚した時に、いずみたく氏から蘭を贈られたのでありますが、この蘭の名をシンポジウムだと言うのですね。蘭の品種について討論でもするみたい。これも人に聞いたらシンビジウムというのだそうである。 さて、この猫だが、実は片親がアビシニアンで、どちらかが雑種なのだそうだ。ぼくはその方を好みます。名門は肌に合わない。ところでクレオパトラが飼っていた猫がアビシニアンだったそうで、アビシニアというのはエジプトの地名なのだという知識を妻はどこからか仕入れて来た。妻はもうクレオパトラになった気でいるようである。 七月十四日生まれだから誕生日を憶えやすい。しかし猫の誕生日を憶えていても役に立つかどうか。それはそうと名前であるが、妻は「桃代」と名づけたのであります。何故か妻は幼い頃から猫に対して「桃代」というイメージがあったのだそうで、もっと正確には「桃代のシン子さん」というのが適当なのだと言う。
「だって一重瞼の人はシン子さんていう感じだし、猫は一重でしょ。どうしても洋子さんて感じじゃないもん」 と言うのだが、このへんを理解できる人は少いのではないかと思うのですけれども。 しかし飼ってみると相当可愛いね、猫という奴は。夫はもともと猫なんぞ飼うな、と言っていたのである。アパート借りてる分際で猫でもねえだろ。猫をうちに入れたら俺が出て行く、と宣言していた。それがどうだろ、ふと気がつくと誰もいない時に「桃代や、もうごはんは食べたかい」などと猫に向って話しかけていたりする。これは相当恥ずかしいことだと思うのだ。まだ猫と政治の話などはしていないから、いくらか救われているのだが、そのうち「桃代や、文藝春秋を読んだかい」なんて言うようになったらどうしよう。 猫は神秘的であるという。魔物だという人もいる。桃代を飼うふた月ほど前に、友人が外国旅行するというので、二週間だけ猫をあずかったことがある。ドジという名の猫だったが、実はこの二週間で多分に猫に魅せられた。 それはさておき、このドジをあずかると間もなく、「きみは猫である」(マグダ・レーヤ 晶文社)という本の装幀に猫の絵を描く仕事が来た。家にモデルがいるのでちょうどよかったのであった。そして桃代が来たとたんに、都築道夫氏の「猫の舌に釘をうて」の装幀と、田中光常氏の猫の写真集をレイアウトするという仕事を依頼されたのである。招き猫ですね。玄関に飾っておいてもいいくらいだ。 ところがペンが動いていると机に登ってじゃれつくし、じゃれるのに飽きるとその場所に坐りこむ。つまり原稿用紙のちょうど書いてる部分に坐ってしまうから、この場合は魔物じゃなくて邪魔物だ。 ● 妻のために作るスパゲッティ 妻が寝込みますと、いちばん困るのは食事であって、掃除洗濯などはうっちゃらかしておいて汚れるままになっても驚かぬが、つまり独身生活が長かったからね、そんなことは馴れていて平気だけれど、めしは抜かすわけにいきません。一人だと出かけて行って食えばいいのだが、病気の妻に食わせなければならぬ。そこでテンヤ物を取るということになる。これがいちばん簡単。しかしテンヤ物はできれば避けたいと思う。冷めちゃうとかね、めん類ならばのびちゃうとか、持ってくる店は少いからバラエティに欠ける、待たされる、値段の割にはうまくない、エトセトラの理由がありまして。 では俺が作る、ということになるのでありますが、これが容易ではない。経験がないから何をどうすればどういう味になるのかわからない。ただし一つだけ得意なものがある。スパゲッティである、これはただ茹でればいいし、ミートボールとか面倒なことはしないからね、チーズをかけるとか、鱈子をまぶすとか、簡単にやっちゃう。鱈子をまぶすのは渋谷のNHKのそばにある「壁の穴」というスパゲッティ屋の親父さんの発明らしいが、これが実にうまい。茹で方については、伊丹十三氏の「女たちよ!」(文藝春秋)という本で教わった。実はこの書物を読んだらスパゲッティがあまりにうまそうに記されていたので、俺もやってみようという気になったのである。