『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の“達成” 京アニらしさの反転と日常のなかの彼岸
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』と京アニ的モチーフの脱構築
それゆえに、初めて劇場版を観たときの違和感は鮮明に思い出せる。劇場版では、これまで死者とされてきたギルベルトは、生者としてヴァイオレットの前に現れる。TVアニメで描かれたのはヴァイオレットが「彼岸を断念する」道中だった一方で、劇場版では失われたはずの、彼岸にいるはずのギルベルトの生存が確認されることによって彼岸の存在自体が失われてしまうのだ。そこにあるのは生者と生者の関わりであり、従来の京アニが描いてきたものと一線を画している。 とはいえそれは、本作の魅力が劇場版によって損なわれてしまったことも意味しない。むしろそこに、京アニの跳躍を見ることはできないだろうか。劇場版では冒頭で、TVアニメ版第10話で登場した少女・アンが年老いて死去したことが示される。孫のデイジーはヴァイオレットが代筆したアンに宛てた手紙を見つけ、それを元にヴァイオレットの足跡を追う。時間の経過を考えれば、おそらくヴァイオレットもすでに死去しているのだろう。このとき、ヴァイオレット自身が「歴史」の方へと回収されていることに注意してみたい。思うに、そこにあるのは生を際立たせるための断絶した「彼岸=死」なのではなく、いずれ誰しも―それは作品の主人公すらも―が回収されゆく、「日常」に内包されているものとしてのそれではないか。 そう捉えるのなら、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズは生と死の、そして時間の連続性を示すかたちを取ることでその境界をあいまいにしつつ、「生」に内包されている「死」が再び「生」を捉え直すという、従来の京アニ作品からさらに一歩踏み出した作品であると言える。 このことは、作中のモチーフからも確認できる。劇場版で目を引く対比の一つに、「手紙」と「電話」がある。当然ながら電話とは生者と生者をつなぐもので、彼岸から直接言葉を伝えることは原理的に不可能だ。劇場版では、「手紙」という衰退が示唆されるメディアと「電話」という新興のメディアが奇妙なまでに並列される。作中でユリスは、弟と両親には手紙を送った一方で、死の間際に親友のリュカに対して言葉を送ったのは手紙の代筆ではなく電話によってだった。この2つのメディアが同じ用途に使われることは、やはり「生」と「死」の境界をあいまいにしている。 そして本作では最後に、ヴァイオレットが郵便社での代筆を辞し、ギルベルトの元へ行くことが示唆される。「ギルベルト・ブーゲンビリア」という人生を捨て新たな生を歩もうとしているギルベルトにヴァイオレットがついてゆくことは、同じように彼女が自動手記人形としての人生を捨て、そして新たな生を歩むということでもある。けれどもデイジーがヴァイオレットの足跡を辿ってエカルテ島に向かうとき、そこにはたしかに「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の生きた証が、彼女の歩く姿が切手というかたちで残されている。デイジーの視点から見えるのもやはり、「死」を内包しながらも生きた彼女の姿なのである。 本作の完結以降、先日発表された『CITY THE ANIMATION』が初めての続編ではない京アニの制作するアニメとなる。この作品が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズを引き継ぐかたちで「生」を描こうとするのか、あるいは再び「死」と「日常」をめぐる作品へ回帰するのかはわからない。ただ少なくとも、従来の京アニから抜け出すような結末を志向した『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』が、現時点で京アニ作品の到達点の一つとして位置付けられることは疑う余地がない。 参照 ※1.【座談会】日常のゆくえ――京アニ事件から『ぼっち・ざ・ろっく!』まで|舞風つむじ × noirse × てらまっと(https://worldend-critic.com/2023/07/15/nichijo-symposium/) ※2. 石岡良治『現代アニメ「超」講義』114~116頁。
舞風つむじ