映画館の2階で〝名前のない鍋〟 監督のレシピで作りたくなって…初めて買った丸鶏
鍋からいい匂いが立ち始めてきた。 鶏だしの食欲を誘う力は本当に格別だ。下の劇場で受付をされているスタッフさんが「香ってきてますよー」とのぞきに来て笑った。大常連のお客さんに「きょう、最後までいたらいいものがありますよ」なんて声がけをしたとも。お客さんとの密な交流、いかにもミニシアター的でいいなあ。 「何を上映するかは、試写を観たスタッフの推薦と、お客さんのリクエストを加味して決めているんですよ」と千穂子さん。新規のお客さんも多いが、千穂子さんが2001年に立ち上げたボランティア団体『シティ・ライツ』からお付き合いの人もいる。 映画にのめり込むうち、「話題の映画を私たちも楽しみたい」と願う視覚障害の方たちが多くいることを知り、始めた活動だった。 「映画も、テレビドラマみたいに副音声がついていれば分かるのに」 「見えなくても、映画が観たい」 当事者たちの切実な声を聴き、もっと“バリアフリー”に映画を楽しめる機会を増やさなければという思いが募っていく。 「私には分からなかった疎外感を彼らは抱えていたんですね。(映画館で映画を体感することは)すごく欠乏していた経験だったと思う」 副音声を自分で作って上映会を開いたとき、「一般客と同じタイミングで笑えたことがうれしかった」「映画館の音響の臨場感に驚きました、楽しかった!」という反応があった。 彼らが日常的に映画を楽しめる場所を創らねばという思いは使命感に変わる。資金、物件探し、消防法や興行場法などのややこしい問題が幾重にも絡まり合って実現は困難を極めたが、千穂子さんはやり抜いたのだった。 すっかりいい色に煮上がった鶏をソッと土鍋に移す。 「見映えを考えて土鍋も持ってきたんです(笑)。スタッフに野菜も食べてほしいから水菜とねぎも入れちゃいました。本当はサムゲタンって入れないんですよね」 いや、これぞまさしく「名前のない鍋」的でいいじゃありませんか。ちょうど時間も20時すぎ、最終上映が終わってスタッフのみなさんが上がってくる。 「きょうはビール飲んじゃう?」 「いいですねえ!」 千穂子さんがみんなに具を取り分けてくれる。 長時間じっくり煮たことで、鶏のうま味やにんにくの香味がなんともやさしく混じり合い、穏やかな味わいのスープに仕上がっていた。 みなさん、すすって目尻を下げる。その表情を観て千穂子さんはなんともうれしそうだった。 「いいもんだね、鍋。これから月イチでやっちゃう?」 「いいですねえー」 パチパチパチと拍手が響いた。サムゲタンは時間がかかるけれど、やろうと思えばサッと用意できるのも鍋のいいところ。 忙しい『チュプキ』のみなさんの恒例ごはんとして、鍋会が今後定着するかもしれない。そのときはまたぜひ、取材させてほしい。 <取材・撮影/白央篤司(はくおう・あつし):フードライター、コラムニスト。「暮らしと食」をテーマに、忙しい現代人のための手軽な食生活のととのえ方、より気楽な調理アプローチに関する記事を制作する。主な著書に『自炊力』(光文社新書)『台所をひらく』(大和書房)など。2023年10月25日に『名前のない鍋、きょうの鍋』(光文社)を出版>