映画館の2階で〝名前のない鍋〟 監督のレシピで作りたくなって…初めて買った丸鶏
「ああ、久しぶりに料理しました。手つきがたどたどしかったですか(笑)? でもねえ、十日にいっぺんぐらいは家で大量に煮込み料理なんかを作ってるんですよ。それを毎日食べてます」 『チュプキ』は平塚さんが代表で、現在は社員3人、アルバイト3人の計7人で運営されている。オープンから8年目を迎えた。 「今、私の仕事は音声ガイドと字幕づくりのコーディネートが主になっています。スタッフをキャスティングして、その収録と編集もして」 音声ガイドとは、目の不自由な観客のために映画の視覚的情報を伝えるもの。と書けば簡単だが、俳優のセリフにかぶらないよう配慮して、必要な情報を1作品分考えてまとめるのは膨大にして骨の折れる作業だろう。字幕はもちろん耳の不自由な観客のためのものだ。ちなみに『チュプキ』でこの4月に公開する映画は9作品もある。 「家には2~3時に帰るときもあれば、朝帰りもわりと。早起きの夫と帰宅したばかりの私とで会話して、なんとか連絡し合って(笑)」 私生活を削ってでも障害のある人々の「映画を映画館で観たい」という思いに応え続ける千穂子さん。映画への強い思いを感じるが、小さい頃から大の映画好きというわけではなかった。 生まれたのは1972年、昭和でいうと47年。東京都は北区、西ヶ原で育った。 「いいところでしたよ、静かな住みやすい住宅街で。1学年400人ぐらい同級生がいるような子どもの多い時代でしたけど。高校時代は硬式テニス部の部長で、練習メニューや部の運営を考えたりするの、好きでしたね」 役割に就いたら、どうすべきか没頭して考えるほうだったと振り返る。大学では教育学部に入り「ドラマの金八先生のような、生徒に寄り添う」人物像に憧れた。しかし教職に進む気にはなれず、バイト先だった飯田橋のカフェの店長として働くようになる。父親は激怒した。 「水商売させるために大学行かせたんじゃねえぞ、って。父は尋常高等小学校から歯科医に奉公して歯科技工士になった人で、何かというと『勉強しろ、そしてサラリーマンと結婚しろ』ってのが口癖。反抗する気持ちはありながらずっと自分を抑えてきましたが、そのときはじめて『自分のやりたいことをやらせてもらいます』と吐き出せました」 カフェが水商売、なんて思われるかもしれない。だが私も昔、アルバイトで長いこと喫茶店やレストランで働いた経験があるが、そういう職種まとめて全部を水商売と呼ぶ人々は多かった。 その後、千穂子さんは店を変えながら飲食の道で働き続ける。「この世界で骨をうずめよう」と一度は決意したが人間関係に悩み、また最初の結婚もうまくいかなかった。 「だんだんうつっぽくなって、離婚して。実家でごろごろしてるわけにもいかず、長く居られる場所を探していたとき名画座やミニシアターと出合ったんです」 当時は入れ替え制でない映画館も多かったので、半日を過ごさせてくれることがありがたかった。だんだんと千穂子さんは心の余裕を取り戻していく。映画が、自分の気持ちを立て直す時間に寄り添ってくれた。そして多くの名画に魅せられていく。 「どこにも居場所がなかったとき、私を迎え入れてくれたのが映画館でした」