【光る君へ】自滅した伊周・隆家兄弟のその後 陰陽師・安倍晴明が見抜いていた二人の性質とは
割り切ったから貢献できた隆家
一方、弟の隆家も、中関白家を一定程度復権させたい一条天皇と道長の意向を受け、長保4年(1002)に以前と同じ権中納言に復帰。その後も、寛弘4年(1007)に従二位、同6年(1009)には中納言に昇進した。 ところが、長和元年(1012)の末ごろから、外傷が原因とされる眼病を患った隆家は、太宰府に唐人の名医がいるというので、太宰権帥への任官を望むようになった。 だが、中関白家はいまなお声望がある。とりわけ隆家は、性悪を意味する「さがな者」として評判で、そんな人物が万一、九州の在地勢力と結合したら大変だ。このため道長は、隆家の太宰府赴任に反対したが、同じ眼病に悩む三条天皇の同情を得て、長和3年(1014)11月、ついに太宰権帥に任じられた。そのことが結果として、ドラマで安倍晴明が「予言」したように、道長の「強いお力」となったのである。 すでに兄は亡くなり、太宰府行きを後押ししてくれた三条天皇も、寛仁元年(1017)に死去。その翌年には、姉の定子が産んだ敦康親王も世を去っていた。こうして後ろ盾がなにもなくなった隆家の足下で、緊急事態が発生した。寛仁3年(1019)3月から4月、女真族と思われる海賊が対馬と壱岐を襲撃し、続いて九州沿岸に押し寄せたのである(刀伊の入寇)。しかし、隆家は武者たちを率いてこれに応戦し、見事撃退している。 その年末、隆家は太宰権帥を辞して帰京した。『大鏡』によれば、「大臣、大納言にも」取り立てようという声も上がったが、「御まじらひ絶えにたれば」、すなわち、内裏への出仕を控えて人と交流しなかったため、実現しなかったという。その後、長暦元年(1037)からふたたび太宰権帥を務め、長久5年(1044)正月、66歳で死去している。 「光る君へ」第20回では、伊周が太宰府への配流をかたくなに拒んだのに対し、隆家は観念し、出雲行きをすぐに受け入れた。それは史実と重なる。その後も、往生際が悪い伊周は負の運勢を引きずり、割り切った隆家は国家に貢献した。安倍晴明は占いによって予言をしたのではなく、2人の性質を見抜いていたからこそ、将来が読めた――。そう伝えているのなら、奥が深い脚本である。 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。 デイリー新潮編集部
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