【光る君へ】自滅した伊周・隆家兄弟のその後 陰陽師・安倍晴明が見抜いていた二人の性質とは
最後まで割り切れなかった伊周
その後の兄弟を、伊周から見てみよう。 長保2年(1000)8月、道長は伊周を大納言相当の正三位に戻すよう、一条天皇に奏上して却下されている。ただ、これは道長が、一条天皇の伊周への認識を試したものと考えられている。同じ年の12月、妹の定子が第二皇女を出産後、後産が下りず命を落としたときは、妹の遺骸を抱きかかえて号泣したという。 しかし、定子は死去する前年の12月、一条天皇の第一皇子である敦康親王を産んでおり、中関白家はその外戚である。天皇としては、伊周らを皇子の外戚にふさわしい立場に戻したかったようだ。また、道長も、かつての政敵に恨みを持ち続けられたくはない。 長保3年(1001)閏12月、病が癒えない東三条院詮子が、伊周を大納言相当の正三位に戻すように促し、実現した。さらに長保4年(1002)2月、「大臣の下、大納言の上」と定められ、久しぶりに昇殿を許された。ただし、周囲の反応は冷ややかだったという。 それでも、長保5年(1003)に従二位になり、寛弘5年(1008)に准大臣、同6年(1009)には正二位と復権は進んだが、寛弘5年に道長の娘で一条天皇に入内していた中宮彰子が、敦成親王を出産してから、伊周の行動はおかしくなった。 同年12月20日、彰子の在所で行われた敦成親王の「百日の儀」では、公卿たちが詠んだ歌の序題を書こうとしていた藤原行成から筆を取り上げ、敦成のことを「第二皇子」と記し、妹である定子が産んだ敦康親王の存在を周囲に再確認させる文言を書きこんでいる。倉本一宏氏はこの行動を「敦成の誕生を祝う宴において、定子所生の皇子女、特に第一皇子である敦康の存在を皆に再確認させようとした、伊周の必死のパフォーマンス」とみる(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。 翌寛弘6年(1009)正月には、何者かが彰子と敦成を呪詛していたことが発覚。捕らえられた伊周の外戚や関係者が、伊周の仕業であると自白してしまったため、伊周の政治生命は完全に絶たれてしまう。 伊周も周囲の関係者も、翌年までには赦免されており、呪詛があったのか、伊周の仕業であったのか疑わしい。だが、道長の外孫である敦成が誕生しながら、「必死のパフォーマンス」を繰り広げる伊周は、だれにとっても煙たい存在だったことだろう。彰子が一条天皇の第三皇子、敦良親王を出産した2カ月後の、寛弘7年(1010)正月、37歳で没している。