名人戦で「羽生マジック」彷彿、藤井名人の逆転劇 豊島九段が挑戦 誰もが気が付くし…本人も当然分かっていた落とし穴
【勝負師たちの系譜】 藤井聡太名人に、豊島将之九段が挑戦する名人戦が、4月10、11日、東京・文京区の『ホテル椿山荘東京』から始まった。 【写真】「笑顔でお願いします」恥じらいながらも笑顔を見せた藤井聡太八冠 前夜祭はコロナ前と同じく、広い会場で400人ほどを集めて行われた。 以前と違うのは、一般の参加者の7~8割が女性客ということ。いわゆる将棋を指さない「観る将」と呼ばれるファンが増えたからで、応援する棋士を見たいというのは、スポーツと同じだ。 従って、対局者の色紙などが当たる抽選会のクジ引きに駆り出されても、何とか女性に当てたいと思う念力も必要はなくなった。 前夜祭の席上、立ち合いの私は、今期名人戦の見どころを聞かれ「豊島挑戦者が名人相手に平常心で指せるかどうかが勝負の分かれ目」という話をした。もう失うものはないのだから、それができるのではないか、という期待もあった。 初日の振り駒で後手番となった豊島は、事前のインタビューで「多彩な戦法を使いたい」と答えていた通り、序盤早々、力戦の構えをとる。 現代将棋では、定跡形の後手番は分が悪いとされているから、後手になったら力将棋でと決めていたのだろう。 結局普段はあまり見ない形の、相横歩取り戦に進展。それでも序盤で1歩得をした藤井が、少し指しやすいのではという展開となった。 しかし豊島は焦って動かず、自陣を強化して、相手の仕掛けを待つ。私は気持ちの上でも負けてないな、と思ったものだった。むしろ決めに行った藤井が焦った形になり、形勢は逆転。 その後も豊島は着実に優位を維持し、いよいよ勝ちが見えた局面となった。 しかし豊島は、当然の一手を指す前に、万が一にも負けない手を指したつもりが、すっぽ抜け、藤井玉に安全な方に逃げられて再逆転された。 誰もが気が付くし、本人も当然分かっていた落とし穴を、その瞬間だけ忘れてしまったのだ。 この光景を見た瞬間、かつて羽生善治九段が無敵の時代に起きた『羽生マジック』と同じだ、と感じたのだった。 藤井相手に勝ちが見えると、トッププロでも平常心でいられないプレッシャーを感じさせるのが、今の藤井の強さかと改めて思った次第である。
■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。