【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】 昭和の名捕手・大矢明彦が語る"ミスタープロ野球"<後編>
大矢 そうだね、今のプロ野球のピッチャーは150キロ以上のストレートを投げるけど、バッターからすればすぐに慣れる。速いに越したことはないんだけど、速いだけでは長嶋さんには通用しない。 僕らの時代でも、インコースにシュート系、アウトコースにスライダー系を投げるという配球が流行ったことがあったけど、何回も対戦するうちにバッターは対応してくる。フォーク系もそうだよね。 ――長嶋さんはその読みが鋭かったんですね。 大矢 そう。格段にすごかった。おそらく、長嶋さんには独自のデータ解析能力があって、その場その場での最適な対処法も持っていた。ランナーがいる時に、こちらがボールに外そうとした球を狙って打ってくることもあったけど、それも長嶋さんならではだよね。 ――長嶋さんの中にデータベースがあったのでしょうか。 大矢 そうなんだろうね。だから、長嶋さん流の読みで、敵も味方も驚くようなバッティングができたんだと思う。瞬時の判断力と、選択がすごかった。そういうことはほかのバッターにはできなかったし、長嶋さんと同じことはこれから出てくるバッターもできないんじゃないかな。 記憶力も大事だけど、その場で有効な方法をすぐに取り出せるというのがすごい。それに、自分の選択を信じられる強さが長嶋さんにはあったんだと思う。 ――日本のプロ野球は発足当初から、メジャーリーグに追いつけ、追い越せでやってきました。2024年は大谷翔平選手(ロサンゼルス・ドジャース)の大活躍がありましたが、日米の実力差についてはどのように思いますか。 大矢 セ・リーグ、パ・リーグを代表する選手であれば、アメリカでも活躍できるということは証明されている。僕が現役の頃(1970年代~1980年代)と比べれば、その差は縮まっているはず。昔、日本のプロ野球選手がメジャーリーグでプレーすることは制度的に難しかった。あの時代でも、もしアメリカに行く選手がいれば面白かったと思う。 長嶋さんの時代でも、長嶋さんならアメリカのファンを喜ばせることができたんじゃないかな? 王さんもそうだと思うよ。 次回、佐々木信也編前編の配信は12/7(土)を予定しています。 ■大矢明彦(おおや・あきひこ) 1947年、東京都生まれ。早稲田実業、駒澤大学を経て1969年にヤクルト・アトムズ(現東京ヤクルトスワローズ)に入団。「鉄砲肩の殺し屋」と称される強肩と巧みなインサイドワークで投手陣をリードし、1978年のヤクルト初優勝に貢献。1985年の現役引退後は横浜ベイスターズの監督を歴任。現在は野球解説者として活躍中。 取材・文/元永知宏