20年前に起きた球界再編の動き「ロッテ・ダイエー」合併案を阻止した企業戦士の意地/寺尾で候
<寺尾で候> 日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。 【写真】無念の表情の古田選手会会長(左)と瀬戸山協議交渉委員長(2004年9月17日) ◇ ◇ ◇ 04年9月18日は、プロ野球史上初のストライキが決行された日だった。2日続きでフルカードの12試合が中止。当時の取材メモを見ると、自身の「休日」の2文字は黒ペンで塗りつぶされ、本紙で緊急連載がスタートしている。 近鉄・オリックスの合併合意にプロ野球選手会が反発し、経営者との協議が決裂したことでかじは切られた。メモによると前日17日の労使協議は「高輪プリンスホテルさくらタワー」(現ザ・プリンスさくらタワー東京)で約10時間にわたって行われた。 複数のオーナーは水面下で「1リーグ」に向けた話し合いを進めていた。その状況下で労使協議の最終的な争点は、選手会が合意文書の「12球団維持に向けて努力する」に「最大限」を加えることができるか否かだった。 NPB選手関係委員会委員長で、ロッテ球団代表の瀬戸山隆三は「我々もファンを増やそうと手を尽くしたし、ずっと赤字が続いても耐えてきたつもりでした。特に一部球団が『最大限』という言葉に強く抵抗した。選手会は経営陣への不信感が拭えなかったようでした」と振り返った。 近鉄球団の03年は入場料売り上げ、放送権料など約35億円の収入があった。選手年俸など人件費が23億円、大阪ドーム(現京セラドーム)使用料など支出との差はマイナス約50億円。本社から補填(ほてん)される広告宣伝費10億円を差し引いても、最終的な事業収支は40億円の赤字に陥っていた。 近鉄に合併を打診したのはオリックスオーナーの宮内義彦だ。近鉄は命名権売却で経営危機を乗り切ろうとしたが、球界からの反発にあった。親会社の近畿日本鉄道社長の山口昌紀、球団社長の小林哲也は、予断を許さない経営の状況に断を下すのだった。 7月7日、オーナー会議後の会見では、26年ぶりに出席した西武堤義明が「もう1つの合併」が進行していると衝撃発言をした。「近鉄・オリックス」以外の合併は、さまざまな臆測を呼んだが、「ロッテ・ダイエー」が軸であるのを突き止めることができた。 この年の「球界再編」の大きなポイントは、ダイエーの動向にあった。阪神・淡路大震災の際は、日本政府より早く動いて救援物資を神戸に運んだ、中内功の“天下のダイエー”が経営不振を極めたが、再生機構の活用ではなく、自力再建にこだわった。 つまり、政財界をはじめ世間では、もはや球団売却の道をたどるしかないとの見方だったが、当のダイエー社長の高木邦夫が独自再建に固執し、球団の合併にも抵抗した。この動きが球界再編を迷走させたともいえるだろう。 高木はダイエーのプロパーで異動担当に携わるなど、人事畑を歩いてきた男だ。あるとき、ダイエー出身でロッテ代表の瀬戸山は、高木から直接電話を受けている。「球団は絶対に売らんからな。死んでも売らん」と強く訴えられた。 拙者は伝説の経営者、中内の懐刀だった鈴木達郎から、いつも食事のたびに「うちはもうけるために球団を買ったわけではない」と聞かされてきた。経済界では「社長候補だった鈴木が早く亡くなっていなければダイエーが成り果てることはなかった」との声は強い。 これは推測でしかないが、高木は最後まで「ダイエー」の看板を守り抜く意地を貫きたかったのではないか。「球界再編」の激動は、人間味を欠いた風情のないドラマだけが切り取られがちだ。しかし、ダイエー企業戦士たちからにじみ出たロマンも伝わってくる。 (敬称略、肩書は当時)