直木賞選考委員を辞し、運転免許も返納して言葉を磨いた北方謙三さんが14年ぶり現代小説 吟味して文体整えた短編連作集を刊行
銃弾が飛び交うことも命掛けの駆け引きもない。だが紛れもなくハードボイルドな小説だ。作家の北方謙三さん(76)=佐賀県唐津市出身=が短編連作集「黄昏のために」を刊行した。14年ぶりとなる現代小説は50代半ばを過ぎた男性画家の<私>が創作と向き合う日々を描く。余剰をそぎ落とし、書く必然性のある言葉で磨き上げた掌編からは独特の緊迫感が漂う。 出版した「黄昏のために」 主人公が表現者として抱える煩悶(はんもん)と愉悦(ゆえつ)が行間から匂い立つ。「表現はすべて嘘であり、同時にほんとうなのだ」などと独白する場面にどうしても著者の影を見てしまう。当の本人は「私小説的なリアリズムを書いているんであって、私小説とは違う」と否定する。かと思うと、「読んだ人は全部北方だと思うようにだまし果せてはいる」といたずらっ子のような笑顔を浮かべる。 小説的な言葉にこだわったという。小説的な言葉とは何か。作中で用いた「いい」という表現に集約される。自然の中にある赤を「美しい赤」でも「きれいな赤」でもなく「いい赤」とした。「『いい』は主観的な言葉だから普遍性を持たない。だけど『いい赤』と書いて普遍性を持たせられた時にリアリティーがぐっと高まるんだ。主観的なものに普遍性を持たせるのが小説だから」 計18篇からなる本作は、大水滸伝シリーズの「岳飛伝」(全17巻)を完走した後の2017、18年と、モンゴル帝国を築いたチンギスハンの生涯を追った「チンギス記」(全17巻)完結後の23年以降に書いた。いずれも大長編を書き終えたタイミングで着手した理由は「文体を整えるため」。読者が戸惑うほど簡潔な描写で奥行きのある世界を表現している印象とは裏腹に、本人には見逃せない緩みを感じるという。 「長編は一つの描写で言葉を多く使える。実は一つの言葉でいいはずなのに三つも四つも使っている状態になってしまう」 あらかじめ1篇につき原稿用紙15枚と決めた。枚数を絞ることで書く必然性のある言葉だけを選ぶ。1字1字を吟味した証しは執筆のペースに表れる。長編の時には1日30枚を書いていたのが、15枚の1篇に1週間を費やした。事前に書く本数は決めず、「整った」と手応えを感じるまで続けた。岳飛伝の後は6篇。チンギス記の後は2倍の12篇を要した。 主人公は絵を描くたびにブラシを使って指先が痛むほど丹念に手を洗い、絵の具を落とす。指先をきれいに保ちたいのに、また絵筆を握る。相反する行為は自分の時間をささげ、新しい世界を生む苦しさを味わうと知りながら、幾度も大作に挑む作家の性(さが)と重なる。 年齢的に最後の長編になることも頭をよぎった「チンギス記」が完結した時、そのまま枯れていく自身の姿も想定した。そんなことはなかった。「全身がざわざわしてさ。最後の方を読み返すとね、これはまだ俺は成仏しとらんなと」。23年続けた直木賞の選考委員を辞し、免許を返納して好きな車の運転もやめた。すべては最後の長編に専念するために。 文体は整った。緩みのない筆致で再び原稿用紙のマスを埋める。新作は中国と、そして日本が舞台となる。チンギスの孫で2度日本に侵攻したフビライと、蒙古襲来に対応した鎌倉幕府8代執権、北条時宗を描く。「今まで描かれた北条時宗はみんな優等生なのよ。俺のは、そうはならない。今言えるのはそこまで」と期待を持たせる。 50歳を迎えた時、エッセー集「風待ちの港で」に「いまの緊張感を持続したまま仕事をつづけていけるのは、欲張ってもあと25年くらいだろう」と記した。すでに76歳。「欲張らなくても余裕だった」と笑う。黄昏れるのはまだまだ先のようだ。 ◇「黄昏のために」は文芸春秋刊。1870円。