愛された42歳ラグビー元W杯戦士・大野均が引退会見「OB廣瀬俊朗氏みたいな俳優業?オファーがあれば考えます」
――ワールドカップでは? 「ワールドカップは、どの試合も印象に残っている。2011年のオールブラックス戦が終わった後に、アフターマッチファンクション(交流会)としてオールブラックスのロッカーで軽食やビールを飲んで交流した。ロックのブラッド・ソーンが来てジャージを交換してくれと。80点差(7対83)で負けたのに対戦相手にリスペクトを持っていてくれたことがうれしかった。(3歳上の)ブラッド・ソーンに『おまえは何歳か』と聞かれ、当時、32歳で『まだまだキッズだな』と言われたことを覚えている。ワールドカップは、4年に一度、ひと握りの選手が選ばれる。31人の中から23人がベンチ入りして、先発が15人。その一人に選んでもらった責任感…ワールドカップは、そういう責任を感じた舞台だった」 ――仲間たちとの交友の思い出は? 「代表に入って2年目の若い頃、フランス遠征で日本から移動してホテルに着くまで24時間くらいかかってみんなヘロヘロな状態でチェックインした。部屋割り表を見たら伊藤剛臣さんと一緒。みんな疲れているので寝るのかなと思っていたら、ジーパンに着替えて、『今から飲みにいくぞ、お前もついてこい』と。ロビーに降りると箕内(拓郎)さんがいて、こういうタフな人たちがジャパンで活躍できるんだと再認識させられた(笑)」 ――なぜ42歳までプレーできたのか? 「ラグビーをプレーすることが好きだったということ。スタジアムの内外でのたくさんの声援に背中を押してもらった。東芝の先輩である松田努さんの記録(最年長記録)を超えられないかなと漠然と思っていたが、あと数か月足りなかった」 ――ラガーマンとして大切にしてきたことは? 「プレーヤーとして一番大事にしてきたのは、激しさという部分。大学から(ラグビーを)始めてパスもキックも下手くそだったが、チームに何が貢献できるかを考えて、それが走ることと激しさだった。シンプルだった。もしパスとキックが上手ければ、ここまで続けることはできなかったのかもしれない。それと所属した日大工学部、東芝、日本代表、サンウルブズは、魅力的で、ここで勝ちたいと思う集団だった。自分のできることをすべて投げ出そうと思った。またグラウンドを離れたらファンを大事にすること(を大切にした)。そういうラガーマン独特の文化、魅力をこれからも広げていきたい」 ――震災に見舞われた故郷・福島への思いをずっと胸にプレーしてきた。 「今でも苦しんでいる、辛い思いをしている人がたくさんいる。ラグビーで、その苦しさをひとときでも忘れる試合をしたい、そういう思いで続けてきた。昨年も、洪水で、母校も浸水した。でも福島の人たちは強い。そういう人たちの強さを見習ってここまでプレーすることができた」