主人公・カナを「新しい女性像」と全肯定することにためらいを覚えるワケ。映画『ナミビアの砂漠』がもたらす反発と共感
現代を生きる女性の感覚をナチュラルに切り取る
私は、日々女性が生きているだけでスカウトや、街を歩く男に「あの子いける?」と急にジャッジを下される経験を「急に牛肉のように知らない人間に等級をつけられる」と表現している。 今まではただ生きていたのに、急に誰かによって「肉」として値札を貼られるのだ。おねえさんならいくらで行けるよ、脱毛してない女は無理。自分のためにやっているのか、誰かのためにやっているのか。それとも広告で無駄に焦らされているのか。永久脱毛なんてない脱毛サロンで「冷たくなります」としか言えないカナ。 同僚が「整形してます?」と訊くのも今風だ。整形してる、が悪口ではなく「整形したくらい可愛い」といった褒め言葉になるくらい、容姿を磨くことは努力であり、ブスは努力不足なんて極論が罷り通る現代をナチュラルに切り取っているなと感じた。
カナの暴力性と男の生きづらさ
優しいホンダ(寛一郎)から、クリエイティブなハヤシ(金子大地)に乗り換えたカナ。勢いで同棲を始めた2人だが、家庭環境や仕事内容などの違いから軋轢が生じていく。 印象的なのがハヤシの家族らとコテージで交流するシーンだ。ハヤシはおそらく金持ちのボンボンで、周りの女の子もカナとは対照的でおとなしい。ハヤシの同期は大学院に進み官僚としてバリバリ働く中、クリエイティブな仕事とは言いつつまだ何者にもなれていないハヤシもなかなかな生きづらそうである。 カナとハヤシは互いに自分の生まれ育った環境の違い故にお互いに惹かれ、そしてその違いから徐々に歯車が狂っていったのかなとも思う。山中でハヤシがリキッドを吸うのは、あの環境の息苦しさを紛らわすためであったのかもしれない。 徐々に暴力性が抑えられなくなっていくカナ。ハヤシに自ら喧嘩をふっかけ、モノを投げる。それに対してハヤシが壁を殴り、反撃の素振りを見せると「怖い」と言う。 カナはハヤシに暴力を振るうが、ハヤシはカナを抑え込み、疲れさせようとしかしていない。「お前まじ殺すよ」と口では言っても殴りはしない。手を出したら、男の負けだからだ。どんなに口で罵られても、モノをぶつけられても、直接反撃したら男性は負けなのだ。サンドバッグになって耐えるしかない。理不尽なカナの要求も飲むしかない。その上、カナはサロンをクビになると「働かなくていいかなぁ」「お前が私の分まで働けよ」と言い出す。 自分を変えることはせず、周りを暴力とわがままで支配しようとするカナを「新しい女性像!」と手放しで評価することはできないし、否定することも難しい。 脱毛サロンで働き、スカウトに罵られ、十分にカナは女としての生きづらさを抱えている。それと同時に、女性の弱さを逆手に取り他責思考と被害者面で責任を逃れようとするカナは、男性の生きづらさを際立たせているように感じられた。 カナのこうした被害者であることを超えて加害性をも持つ動きは、周りの人間も追い込んでいるようで、どうしても共感と反発を覚えてしまうのだ。