日本でクラシック音楽が広まらない残念な理由とは? ピアニスト・田崎悦子
終戦後すぐにピアノを始める 夢は実現しても「生活が大変な時期も」
そして田崎が生まれたのは、1941年。20世紀半ば、太平洋戦争が始まった年だ。終戦後まもなくピアノを学び始め、井口秋子氏に師事。小学6年生で新人の登竜門とされる全日本学生音楽コンクールのピアノ部門で優勝。桐朋学園音楽部高校を卒業すると、1960年、18歳で渡米した。フルブライト奨学金でニューヨークのジュリアード音楽院に留学。母親が新聞記事で見つけたレストランのオーナー宅に身を寄せた。4人の子を養子にし、夫人は元ハリウッドの女優というファミリーだった。 「デビューはヨーロッパが先で1971年。アメリカでデビューしたのは1972年、カーネギーホールでした」 そのまま30年、ニューヨークに住み続けた。1979年には、シカゴ交響楽団常任指揮者のゲオルグ・ショルティに発掘され、同オーケストラとバルトーク・ピアノコンチェル卜第2番でシカゴデビューを飾ると、一躍国際的な檜舞台に上がった。 「でも私、ピアニストっぽくないんですよ。こういう人もいるんだよって書いてください」と笑う田崎。その意味は、前述のような、日本人が持つクラシック音楽の上流階級的なイメージとは異なる生き方をしてきたということだ。実力の国際的評価とは裏腹に、「生活するのが大変だった時期も経てきました」と振り返る。
演奏とは「作曲家と1対1で対すること」、「作曲家に寄り添うこと」
帰国後は、八ヶ岳山麓に住んでいる。 「そこにいるとある意味、すっかり『国』というものを忘れちゃうんです。自然がいっぱいあって、鳥がうるさいほど鳴くし、草はいやというほどぼうぼう増える。どこの国かわからないです、まず。ヨーロッパの友達がくると、家に帰ったみたいだって言うほどヨーロッパ的な部分があるけれど、藁葺き屋根が近くにあったり、村の人たちの回覧板がまわってきたりと古き良き日本的な部分もある。私の世界、私の宇宙がそこにあるんです」 その、国を意識しないでいられる、感性が国境に縛られない環境が、演奏に役立っているのは確かなようだ。 「演奏するということは作曲家と1対1で対すること、作曲家に寄り添うことです。ピアノを弾くというのは、恋愛すること。彼ら(作曲家)が誰かを愛する思いが、こちらに伝わって感じられるわけです。だから私は、曲が描く彼女の身にもなれる。そして、もうひとつは神様ですね。思い描く相手は神様か、女性。それがほぼすべてでしょうね」 今年は、「三大作曲家の愛と葛藤2018」(東京文化会館小ホール)という公演を5月26日(Part1)と10月13日(Part2)に控える。いずれもショパン、シューマン、リストというラインアップで、19世紀、ロマン派の3人の作曲家たちだ。ショパンはポーランドのワルシャワ近郊で、シューマンはドイツのザクセン州ツヴィカウで、リストはハンガリーのライディングで生まれたが、数奇なことにほぼ同じ年、1810年と11年に生まれた。 「作曲法は、まったく違うんですけどね。3人の間には尊敬の念もあったと思うし、葛藤もあったと思う。その前の世代、ベートーヴェン、シューベルトだと崇拝しないとできないというか。ショパン、シューマン、リストの場合は、もちろん偉大な作曲家ですが、私がもっとも私でいられる作品たちなんです。とにかくロマンティック。その時代になるとピアノという楽器がすごく華やかに使われるようになったんです。ピアノという楽器が面白くなってきたところです。作曲家の愛と葛藤、炎と涙に寄り添って、私にとって自分が一番出しやすいんです」 国際的ピアニストは庶民として生き、庶民のために鍵盤を弾く。 (取材・文・写真:志和浩司)