「大坂の陣」の舞台は上町台地だけではない。八尾市で「大坂の陣と常光寺」展/大阪
豊臣秀頼方と徳川家康方が戦った「大坂の陣」(冬の陣・1614年、夏の陣・15年)から400年。記念イベントが相次ぐ大阪で、「大坂の陣の舞台は上町台地だけではない。河内にも注目してや」と、アピールしているのが、八尾市内で開催中の「大坂の陣と常光寺」展。大坂城から遠く離れた生駒山のふもとで展開された激戦を振り返る。
水田に囲まれ戦いは「戦場の確保」から
異色の企画展を開催しているのは、八尾市立歴史民俗資料館(同市千塚)。天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)から14年後の1614年(慶長19年)。関ヶ原戦敗退後も大坂城を拠点に再興をうかがう豊臣方と、天下の完全掌握を狙う徳川方による最終決戦のときが訪れた。 大坂城に籠城(ろうじょう)する豊臣方を、徳川方が圧倒的戦力で攻め立てた冬の陣。善戦した豊臣方が和睦に持ち込んだものの、大坂城は堀を埋められ、丸裸状態になってしまう。明けて15年(慶長20年)の夏の陣。もはや籠城できない豊臣方は5月6日、東から進軍してくる徳川方を、河内平野東南端で迎え撃つ先手必勝作戦に出る。八尾、若江、道明寺などの河内地域で激戦が繰り広げられた。 八尾の戦いはどんな展開だったのか。小谷利明館長によると、最初に行われたのは、意外なことに「戦場の確保」だったという。「河内は弥生時代から米作りが盛んで、水はけの悪い深田が多いため、戦闘に適していません。大勢の兵士が野営し、騎馬で駆け回って戦をするためには、まず戦場を確保しなければならない。そのため、戦が始まる前に、一部の寺内町などをのぞき、両軍によって家屋が焼き払われ、取り壊されました」。戦闘開始前に破壊される村々。歴史ドラマではほとんど見かけない情景だ。
砂州が広がる河原でゲリラ戦法
戦場が限定される分だけ、広い場所を先に押さえると、戦況は有利に動く。豊臣方の長宗我部盛親軍が、旧大和川の流れに沿って広がる砂州「八尾河原」を占拠。鉄砲隊が横一列に並んで、徳川方の藤堂高虎軍を待ち伏せした。「藤堂軍は馬一頭がようやく通れる細い道を縦一列で進まざるを得ない。長宗我部軍の鉄砲隊が取り囲むように一斉射撃して、藤堂軍は大きな打撃を被りました」(小谷館長) 藤堂軍の苦戦などで徳川方は思わぬ劣勢を強いられ、豊臣方は奮戦するものの大坂城防御のために撤収した。翌7日、両軍は上町台地で向かい合い、壮絶な激闘を展開。徳川方の勝利となり、炎上する大坂城とともに豊臣家は滅亡し、徳川方は長期安定政権へ歩み出す。