女性登山家・田部井さんの山登り哲学。「山は大切な何かを教えてくれる」
機材を背負わず、岩場も通らない、いわゆるトレッキングに近い山登りを楽しみはじめたのは、50歳を超えて、登山教室を始めてからだった。60歳を数えると、さらに登山機会が増え、僕が出会った5年前にも「年間に100日以上、山に行く」と言われていた。お子さんも独立。これまでは、母親としての家事や用事の隙間をぬって山へいく「隙間山行」から自分の世界を楽しめる「好きな山行」に変わったと話された。 「ずっと頂上だけを目指していたわ。でもね、今は、頂上にタッチしにいかなくてもいいよねという気持ちなの」。エベレストを登った人が、お仲間たちと、実に楽しそうに山を登る。いつも、手づくりのお弁当と、とっておきのお菓子を持参。それをブータンで買った可愛く機能的な小物入れに入れていた。 「お弁当は重いほど美味しいのよ、胃袋に消えちゃうから」 冷蔵庫には、いつも山に持っていくための、干し柿、干し芋、笹団子が大量に冷凍してあったそうだ。 田部井さんは「山はいろんなことを教えてくれるの。学んだことはいっぱい」と言った。 たとえば? と愚問を発すると、「山では水道もない、お湯も出ない。コンビニもないから忘れものでもしたら大変なことになるわね。そういう経験をして、山を下りてくると、生活の中でモノへの感謝の気持ちが生まれるの。仲間の誰かが、何か忘れものをしたり、失敗しても、愚痴や文句を言っても解決しないわよね。だから気持ちもおおらかになり、愚痴や文句を言う機会も減ってきたわ。私ね、きっと山に行っていなかったら、文句ばかりを言っている、おばあさんになっていたと思うのよ」と、笑う。 「山はね、楽しさだけでなく生きるうえで大切な何かを教えてくれるのね」 人はなぜ山に登るのか? 登山家にとって大切な哲学を田部井さんは、晩年になって再確認して、自らが楽しみながら、その素晴らしさを多くの人に伝えた。 エベレストの10分の1ほどくらいの高さしかない御岳山の山頂で、田部井さんに立てていただいた抹茶を飲んだ。簡単な野点セットをザックにつめこみ、山頂での野点(のだて)が田部井流だった。 「絶景を見ながら、季節の花、澄んだ空気、鳥の声を聞き、抹茶をいただくなんて、最高の贅沢でしょう」。 あのとき、田部井さんにいただいた以上のお茶に、今なお、めぐりあうことができない。 山には、まるで忍者みたいな身のこなしで、ひょいひょい道なき道を走りぬけていたご主人も一来られていた。みんなに愛され、山に愛され、家族に愛された田部井さん。山と共に歩んだ77歳の生涯に合掌。 (文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)