「リアルを越えたリアル」井上尚弥と白井義男の共通項。東京ドームにはボクシングの神が潜んでいる
日本人ボクサーとして初めて世界一になった白井義男
ルイスが日本でエキシビションを実施した翌1952年5月19日には、同じ後楽園スタヂアムで白井義男がダド・マリノを破り、日本人ボクサーとして初めて世界チャンピオンになった。 筆者が持っている『日本名ボクサー新100人』(日本スポーツ社/1983年刊)なるムック本の中で白井を紹介するページでは、後楽園スタヂアムのグラウンドの真ん中にリングが設営され、その周囲を大観衆が取り囲む粒子の粗いモノクロ写真が掲載されている。 さらに世界タイトルマッチを行うため、世界のボクシング界の趨勢になりつつあった“一国一コミッシション”という流れに則り、JBCが設立されたという経緯があった(それまではボクシングジムのオーナーたちによって興行やタイトルが管理されていた)。 終戦からまだ7年、スポーツ界における日本の立ち位置もいまとは大きく違っていた。白井が世界王座を奪取した2カ月後に開幕したヘルシンキ・オリンピックで日本はオリンピックの舞台への復帰を許され、レスリングの石井庄八が金メダルを獲得している。1952年は戦後スポーツの曙となった年と定義してもいいのではないか。 いずれにせよ、モハメド・アリが“蝶のように舞い、ハチのように刺す”といわれた華麗なステップを見せる前に、白井は華麗なフットワークで国民を魅了していたことは特筆されるべきだろう。いまよりも娯楽の種類が少ない時代だったので、ボクシングに対する注目度はいやがうえにも高かったという時代背景もあった。 木村政彦と組んだ力道山がシャープ兄弟と闘って第1次プロレスブームを巻き起こすまでには、あと2年待たなければならない。リングスポーツから飛び出た国民的英雄のパイオニアは間違いなく白井だった。
「リアルを越えたリアル」白井義男と井上尚弥の共通項
白井義男と井上尚弥には共通項がある。それは国民の希望の灯となっていることだろう。 白井の活躍は、敗戦のせいで日本全体を覆っていた暗くよどんだ空気を払拭させるだけの力を持ち合わせていた。第16代世界フライ級王者だったダド・マリノはアメリカ国籍だっただけに、白井の一打がヒットするたびに観客の誰もが胸がすく思いをするとともにナショナリズムの高揚を感じたのではないか。 一方、ネリを相手に井上が魅せたボクシングにも同じ匂いを感じたのは筆者だけではあるまい。とめどなく続く円安の中、迷宮に入り込んだ日本経済の出口は見えない。この先、どうすればいいのか。そんな不安を抱く者にとって1ラウンドにダウンを奪われてからの井上の逆襲劇は胸がすく思いの一言では片づけられない、ボクシングならではのシナリオのない崇高なドラマが見え隠れしていた。 リアルを越えたリアルとでも表現すればいいだろうか。 もし井上が、ハイレベルなテクニックだけのボクサーなら、ボクシングマニアだけを満足させる世界チャンピオンに終わっていただろう。しかし現在の井上が市井の人々にも支持されているのは、ボクシングファン以外の人が見ても納得できるだけの気迫が一打一打に内包されているのが可視化されているからではないのか。 今回の一戦はその傾向がとくに顕著だった。例えば2019年11月7日のノニト・ドネア戦では井上が出血するだけでも話題となったが、今回先制のダウンを喫したのは井上のほうだった。誰も予想できない攻防に直面した我々は興奮しながら事の推移を見守るしかなかった。モンスターと呼ばれているのには、それなりの理由がある。 ジョー・ルイスが歴史に埋もれかけている6人がけを演じ、白井義男が日本人初の世界チャンピオンとなった後楽園スタヂアム(もっというと、タイトル挑戦のちょうど1年前、白井はこの球場でノンタイトル戦でマリノと闘い僅差の判定負けを喫している)。 日本初の屋内球場にリニューアルされたあとは、マイク・タイソンがジェームス“バスター”ダグラスに世界を震撼させた逆転負けを喫した場所としてだけではなく、井上尚弥がネリを相手に歴史に残る激闘を演じた舞台として我々の胸に深く刻まれることになった。 この地にはボクシングの神が潜んでいるのか。 <了>
文=布施鋼治