『【推しの子】』が描く俳優たちの苦しさ 感情演技に向き合う“大きなリスク”とは?
フィクションに生命を感じさせる“いい演技”とは何か?
第十五話「感情演技」では、いつも冷静沈着なアクアが狼狽え、憔悴する様子が描かれていた。彼は自分の役を演じるうえでもっと感情的になることを求められ、自身の内面を掘り下げようとした結果、過去の苦しい記憶がフラッシュバックしてしまった。そう、彼の母親であるアイが刺殺される場面だ。 「演技」とは読んで字の如し。あくまでもフィクション。つまり、嘘だ。外面をうまくつくり上げることができれば、それらしく見えるもの。しかし、基本的に「いい演技」とされるものは、そこに真実味が感じられなければならない。つまり、嘘の層が薄い。この真実味が強ければ強いほど(嘘の層が薄いほど)、私たちは感動するものだ。それがフィクションであることをどこかで理解しているにもかかわらず、演技によって表現されているキャラクターに“生命”を感じるから。この“生命”がたしかに感じられたとき、私たちはその演技者に対して「リアルだ」「いい演技だ」と称賛を贈るだろう(リアルであることだけが素晴らしいわけではないが、ここでは触れずにおく)。 しかしだ、このこととアクアの存在を重ねてみると、見えてくるものがあるのではないか。それはつまり、私たちが無邪気に楽しんでいる「いい演技」のために、俳優は自ら危険を冒している場合があるのだということ。演じるキャラクターの感情を引きずり出すため、トラウマやインナーチャイルドに向き合わなければならないことがある。自分事として置き換えてみると、その困難を少しは理解できるだろう。誰だって思い出したくない過去や、無意識のうちにフタをしてしまっている記憶というものがあるはずなのだ。 しかも、「演技」として私たちの前に提示されるものは、俳優が紡ぎ出したキャラクターのごく一部でしかない。そのごく一部のために、彼ら彼女らは大変な危険を冒していたりするのである。 いまだにネット上などでは、俳優の演技に対して非常にネガティブな言葉ばかりを並べる者がいたりする。たしかに、俳優たちの苦しさは、私たち観客/視聴者にとってはどうでもいいことなのかもしれない。お金と時間を使っている以上、それ相応のパフォーマンスを求めて当然だろう。しかしこの「2.5次元舞台編」を観ていれば、俳優の一人ひとりが舞台に立つためにどんな苦闘を繰り広げているのか分かるはず。彼ら彼女らをまずリスペクトするところからいか、いいものは生まれないと私は思う。 「演技」を「いい演技」にするには、大きなリスクをともなう。俳優とは、自身の心を扱うアーティストなのだ。
折田侑駿