14代将軍・徳川家茂は美男子で人柄も抜群だった? 再評価されつつある「愛され将軍」の実像
NHKドラマ『大奥』幕末編では、いよいよ14代将軍・徳川家茂の治世が描かれる。家茂へのイメージと問えば、少なからず「いい人」という回答が得られるだろうが、果たして実際の家茂はどのような人物であったのだろうか? ■家茂は美男子で性格もいい超ハイスペック男子だった? 14代将軍の徳川家茂(旧名:慶福)は、21歳という若さで亡くなったこともあって、長らく幕末政治史上で脚光を浴びることはなかった。なにしろ征夷大将軍に任じられたのが安政5年の10月で、満年齢でいえば12歳そこそこの少年であり、それからの将軍在位期間は10年に満たなかったからである。 したがって、将軍在職中の前半2年間は大老井伊直弼に、その後の8年間は直弼の後を継いだ老中たちに政治を任せた存在だとみなされ、それが家茂をして影の薄い脇役としての存在に留まらせたのである。だが、そうしたなか、近年彼が果たした独自の役割に注目が集まりだしている。 ところで、まずはその容貌であるが、家茂がなかなかの好男子であったことは間違いない。ほぼ完全な姿のままで見つかった遺骨を鑑定した結果、身長は156.6cmと推定された。当時にあっては、ごく普通の背丈だったといえる。が、家茂のルックスに関して、甚だ特徴的なのは、鼻梁が高く、眼窩の高さと幅が現代人のそれと比べて際立っていたことだ。つまり、鼻筋が通り、彫りの深い顔立ちだったということである。ただし、身体は少々ぽっちゃりとしていたらしい。 家茂に接した人物たちの残した各種の史料から明らかになるのは、どのようなことか。これは一言でいえば、子供時分から人柄がすこぶる良かったという評価に尽きる。生活態度も質素な食事を好み、将軍として政治に取り組む姿勢も真面目・謙虚で、忍耐強く、他人の言葉に素直に耳を傾けたという。 もっとも、その分繊細なところも多々ある青年だったらしく、次のようなエピソードが残されている。それは、将軍として家茂が生まれて初めて京都を訪れた18歳の時の話である。上洛の途上、ある寺に宿泊した際、「座敷がひどく陰気」だったので、家茂は不安に感じ、その結果宿所が変更されたという(久住真也『王政復古』)。 こうしたエピソードはともかく、家茂に対する評価として、最もよく知られているのは、文久3年(1863)の4月に大坂の地で幕府の軍艦に乗せて案内した勝海舟の証言(『勝海舟関係資料・海舟日記(1)』文久4年正月3日条)である。 勝は好奇心に溢れ、自分に何度も質問を繰り返した家茂について、翌年次のように書いた。「将軍家いまだ御若年といへども、まことに英主(優れた君主)の御風あり、かつ御勇気盛んなるに恐服す」と。 監修・文/家近良樹 歴史人2023年11月号『「徳川15代将軍ランキング』より
歴史人編集部