WAT'S GOIN' ON〔Vol. 9〕カツ丼とラーメンとバスケットボールな青森ワッツ中興の祖
常勝だけがプロスポーツチームの存在意義なのだろうか…既存のプロスポーツ観に逆らうようにBリーグ誕生以前から活動を続ける不思議なプロバスケットボールチーム《青森ワッツ》の魅力に迫る。台湾プロバスケットボールリーグの新竹ライオニアーズとのグローバルパートナーシップ締結など、アリーナに収まらない活動を開始した青森ワッツが地元青森にどのような波及効果をもたらし得るのか、また、いかにしてプロスポーツチームのあり方を刷新してゆくのか、その可能性を同チームの歴史とともにリポートする。〔全13回〕
タグボート
もともとは、地域活性化のために結成された青森ワッツ。その当初の目的を超えて、Bリーグへの参加を決断したとき、運営会社の社長であった下山保則が心に刻んだルールがあった。〔WATS GOIN' ON Vol. 8〕の記述を再掲する――青森スポーツクリエイションは、青森ワッツを将来にわたって保持し続けられる経営資本とビジョンを持つ「船長」と「次の船」が決まるまでのタグボートである。「船長」と「次の船」が見つかるまで、とにかく沈まずに航海を続けることを使命とする――。 では、青森ワッツにおける「船長」とは誰だろうか。チームの運営会社である青森スポーツクリエイションの社長は、船長かもしれない。けれど、それだけでは不足だ。チームを支えるのではなく、チームを導き、指揮を執るヘッドコーチも船長に等しい。そのヘッドコーチと運営会社・社長の間を取り持ち、双方の意見を汲み、ふたりの船長を納得させる役回りを担う、ゼネラルマネジャーも重要だ。
最高のアマチュア選手
下山が、北谷稔行を見つけたのは早かった。 「ワッツが出来たとき、一番最初のbjリーグに参加するときからですね。そのときは『選手として来ないか』と声をかけてもらいました」(北谷) 今は選手ではなくなり、すこしだけ肉がついた。昼飯に、かつ丼とラーメンを一緒に食べるのでは当然だ。 1980年に鶴田町で生まれた北谷は、青森県を代表するアマチュア選手である。弘前実業高校から拓殖大学に進み、1999年の全日本大学選手権で準優勝。JBLの実業団チームからの誘いを断り、青森県国民健康保険団体連合会に就職し、地元に戻った。 「私は両親を早くに亡くし、祖母に育ててもらいました。プロというか、実業団でのプレーにも興味がありましたが、ずっと世話になってきた祖母と一緒に暮らしたいという気持ちが強かったので、実業団でのプレーを諦め青森で就職しました」(北谷) だからといって、北谷はバスケット選手であることをやめたわけではなかった。日々の勤務を終えた後は夕方から練習を続け、14年連続で国民体育大会の青森県代表チームに選出されるなど、日本バスケット界にその名を轟かせるアマチュア選手となっていた。