映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』を徹底レビュー!「悔しみノート」の梨うまいが、聴者とろう者が“同じ世界”を共有できる映画の力を語る
『そこのみにて光輝く』(14)などの作品で知られる呉美保監督が、コーダ(耳がきこえない、またはきこえにくい親のもとで育った子ども)という生い立ちを基に書かれた五十嵐大の自伝的エッセイを吉沢亮主演で映画化した『ぼくが生きてる、ふたつの世界』がついに公開となった。宮城県の小さな港町で暮らす五十嵐大(吉沢亮)は、耳がきこえない父(今井彰人)と母(忍足亜希子)の通訳を幼いころからしていたが、成長するにつれ、まわりから特別視されることに戸惑い、反発するようになる。親への複雑な感情を抱えたまま20代になった大は、誰も自分の生い立ちを知らない東京へと逃げるように上京する。 【写真を見る】吉沢亮が、感情的に手話で母親に訴えるシーンは圧巻…! “きこえる世界”と“きこえない世界”を行き来する大は、特殊な存在に思えるかもしれない。だがなぜか、私たちは彼に自分を重ねてしまう。大切な人を傷つけてしまったあの言葉、伝えられなかった本当の気持ち…そんな、親と子、そして私たち自身の物語とも言える本作を、学生時代を東京で過ごし、そこで抱えた孤独や悩みを、TBSラジオ「ジェーン・スー 生活は踊る」のお悩み相談コーナーに投稿したことで話題となった経験を持つ、エッセイ本「悔しみノート」の著者、梨うまいがレビュー!本作におけるろうや手話の演出の徹底ぶりが、まるでドキュメンタリーのように、地続きの現実として私たちの記憶を刺激することについて綴ってくれた。 ※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください。 ■自然な音のみで構成された作品の世界を自分の日常に重ねて エンドロールがはじまったとき、やけにエンディング曲が大きくきこえるというか、存在感が強いなあと思い、そこでようやくこの作品に劇伴が無いことに気付いた。レストランでのシーンなどで、店のBGMとして流れている音楽がきこえてくることはあるものの、“その場に無い音”は一切挿し込まれていない。だから突然はっきりときこえてきた音楽に新鮮さを感じたのだ。そのことにエンドロールまで全然気が付いていなかった自分が鈍すぎて恥ずかしい。仮にも「この映画についてコラムを書くぞ」と意気込んで観ているんだから、そういう制作意図には敏感になりなさいよ、バカ。 ということで、反省を込めて、兼、頭の中の整理のために散歩をすることにした。いつもならイヤホンをして、ラジオや音楽をききながら1時間ほど歩くのだが、今回はやめだ。街の音に耳を傾けたい。終始自然な音のみで構成されていた作品の世界を自分の日常に重ねてみると、一体どんな景色に感じられるだろう。期待に胸膨らませて、外へ向かうべくエレベーターに乗り込んで愕然とした。もう音楽、鳴っとる。かなりどうでもいい――いや、このどうでもよさにこそ重要な役割があるのだとは思うが――イージーリスニングな曲がそれなりの音量で流れていた。ほぼ毎日のように耳にしていたはずだが、正直全く意識したことがなかった。己の鈍感さに重ねてショックを受けつつ外に出ると、溢れかえる音、音、音。道路を行く車、フル稼働の室外機、どこかの家のテレビ、風にはためくビニール袋、姿の見えない飛行機。むしろ音を出していないものの方が少ないのではと思うほど、あちこちから音がして眩暈がする。うるさい。一つひとつの音を捉えることに疲れ果て、散歩は30分で切り上げて帰宅した。 普段、これだけ大量の音を無意識にきいているわけだ。そこから得ている情報のなんと多きこと。そして、これらが全て存在しない世界を想像する難しさ。「音がきこえないだけ」なんて簡単に言ってはいけないと痛感した。きっと、聴者として、聴者であることすらも意識せずに生活してきた私には、想像しきれない別世界で暮らしている人たちがいる。そしてその狭間で揺れ動くのが、本作で描かれたコーダという存在だ。 ■誠実で切実な信念が息づいたこの映画をまっすぐに味わって きこえない・きこえにくい親のもとで育つ子ども、“Children of Deff Adults”の頭文字をとってCODA(コーダ)。その存在と名称を広く世界に知らしめたのは、言うまでもなく第94回アカデミー賞で3部門を受賞した『コーダ あいのうた』(21)だろう。実を言うと、私はしばらくの間この作品を観るのをためらい、鑑賞したのはつい最近のことである。『コーダ あいのうた』の原作であるフランス映画『エール!』(14)を公開当初に観て、繊細なテーマを果敢にとりあげた熱意ある作品としてかなり印象的だったということもあり、リメイクされると聞いたときからいい気分がしなかったのだ。多くの人に観てもらうことに注力しすぎて、“ろう”や“”コーダ”が軽々しく消費されてしまうんじゃないか。高い評価を得ていると知りながらも、その疑念からなかなか観ることができなかった。まぁ結果として、そんな考えは私のひねくれ妄想に過ぎなかったんですけど。 時折、映画に限らずドラマやテレビ番組が「感動ポルノ」なんてひどい言葉でこき下ろされているのをネットで目にする。私はこの言葉が本当に苦手だ。自分が観て、感動して、素直に良かったなぁーと思っていた作品が、誰かにとってはそんな侮辱と暴力を孕んだものだったとしたら、知らぬ間に私は加害者になってしまうのではないか。この恐怖から、私はセンシティブな題材を扱う作品に対していつしか懐疑的になってしまっていた。 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』に対しても、もしかしたら似たような考えから敬遠する人がいるかもしれない。そんな人には声を大にして伝えたい。安心してください、この作品には誠実で切実な信念が息づいています。あなたが観て、心動かされることによって、誰かの尊厳を傷つけるようなことにはなりません。だからどうか、まっすぐにこの映画を味わってください。 ■当事者へのこだわりが作りだす“すぐ隣にある現実”というリアルさ 本作では、『コーダ あいのうた』と同様にろう者の役を実際にろうの俳優が演じている。主人公の両親をはじめ、手話サークルで出会う人々など、聴者とおなじくらいのろう者が登場するが、その全てが“当事者”によって構成されている。そしてこの“当事者”へのこだわりは、ろう者役だけに留まらない。主人公の大がフリーライターに転身し、義肢装具の製作工房を取材するシーンを覚えているだろうか。ほんの短いシーンでストーリー上に大きな影響のないものだが、妙なリアルさがあって問い合わせたところ、あの工房は実在する場所で、出演しているのも実際に働いている方々だという。どうだろう、この徹底ぶり。あらゆる場面が限りなく現実に近い人と場所で構成されているからか、私はところどころドキュメンタリーを観ているような感覚に陥った。どこか遠いところの物語ではなくて、地続きの、すぐ隣にある現実として受け取ることができたのだ。 また、当事者を起用することで得られる大きな効果は、ネイティブな手話表現だ。手話は言語である。例えば、日本で生まれ育ち日本語を話す役柄を、アメリカで生まれ育ち英語を話す俳優が演じたらどうだろう。どんな名優だろうと、日本語が母語である私たちが観た時に全く違和感を覚えないかといえばそれは無理がある。些細な違和感だとしても物語への集中は削がれ、説得力にも欠けてしまう。それどころかムカついてきちゃう可能性もある。ほら、よく朝ドラで方言についてやんや言われるではないですか。関西弁の台詞なんかは特によく燃える。慣れ親しんだ言語に対するプライドというのは、誰しもが抱くものだ。だからこそほんの少しの違和感も鑑賞の邪魔をする。その違和感が無い、というのは、手話を扱う映像作品としてのクオリティを大きく変えているのではないだろうか。 聴者に囲まれて生まれ育った聴者の私には、ネイティブな手話とそうでない手話の違いというのがどれほどのものなのか、明確には分からない。しかし、本作を観ているうちに、手話にも個性があることならなんとなく分かった。劇中で手話にも方言が存在することが触れられていたが、その人の“話し方”とでも言おうか、そんなニュアンスを感じる場面があった。静かでさっぱりとした父親の手話、優しく丁寧な母親の手話。主人公、大がパチンコ屋で出会う女性の手話は豪快で気風が良い。この差異に気が付くと、ネイティブと非ネイティブの手話の違いについて一層興味が湧き、非ネイティブの俳優で演じられた別の映像作品と見比べてみようと思い立ったのだが、トヨエツがあまりにかっこよくて頭に何も入ってこなかった(トヨエツのかっこよさは永久に不滅です)。 ■コーダを遠い存在として捉えさせない!吉沢亮の力みのない演技 トヨエツのかっこよさを再認識したところでふと思った。そういえば本作の主人公を演じた吉沢亮だって相当かっこいいよな???あまりこうルッキズムじみた話はしたくないのだが、あのバッサバサのまつ毛ひとつをとっても日本人の平均的な顔面から逸脱したお顔立ちなのは事実である。この端正さが、本作を自分ごととして捉えることを難しくしてもおかしくないのだが、不思議とそうは感じなかった。何故だろうか。思うに、彼の演技における“てらいのなさ”によるものではないだろうか。 『コーダ あいのうた』でコーダという存在に注目が集まる中、日本のメジャーな映像作品でコーダを描いたものはまだ数えるほどしかない。センシティブ且つ注目度の高い役柄、加えて『そこのみにて光輝く』に代表される輝かしい功績を持つ呉美保監督作品で主演ともなれば、肩が外れるほどぶん回っちゃいそうなものだ。しかし吉沢亮の見せる演技は、非常にフラットである。「難しい役どころもこなしちゃう演技派な俺!」みたいな自意識が全然感じられない、いつもの吉沢亮だ。力みのない演技が、コーダを遠い存在として捉えさせない。しかしそのフラットな芝居の裏には、手話と口話の両方を操るうえでの表現バランスの追求があったはずだ。特に母親に苛立ちを募らせ、感情的に話すシーンでは緻密な演技構成が感じられる。きこえない母親に伝えるためだけではなく、感情の発露として思わずといった形でも手話が出るような、バイリンガルであるコーダならではの話し方。是非ともこのシーンについては、コーダ当事者からの講評を聞きたいものだ。 ■「母と子の愛情」というテーマを体現してみせた忍足亜希子の人間力 コーダというマイノリティの視線から語られる物語を、あまねく観客に“自分ごと”として受け取らせることに成功している本作。そのための大きな要因となっているのが、当事者の起用に加え、全体を通して描かれる「母と子の愛情」というテーマだろう。 母の愛を一身に受けた幸せな幼き日々。ひどい言葉を浴びせて傷つけた十代。人それぞれに多少の違いはあれど、きっと身に覚えのある台詞、空気、眼差し。少なくとも私には共感できる思い出が多々あり、胸が苦しくなるような懐かしさで涙がにじんだ。なかでも前半の幼少期、きらきらと美しくあたたかい光のなかで映し出される親子のやりとりには、親に愛されて育ったこのうえない幸福が思い返されて、私はつい昔のアルバムを引っ張り出して眺めた。まだ自意識の沼に足をとられる前の自分が、屈託のない笑顔で写真におさまっている。一緒に写っている母が若くて、なんだか切ない。どの写真にも疑いようのない愛が溢れていて、見ているだけでただただ幸せだった。 そうしてアルバムをめくっているうちに、いつの間にか母が隣にやってきて、聞いてもないのに思い出を語り始めた。半目で写った変な顔の自分も、「かわいい、かわいい」と愛おしそうに見つめながら話す母の横顔を見ていると、なんだか本当にかわいく見えてくる。幸福な時間だった。 いつでも微笑みを絶やさず、やわらかく深い愛で受け止めてくれる母。言ってしまえばやや前時代的で理想が過ぎる母親像にもかかわらず、こんなにも嫌味がないのは、役を演じた忍足亜希子その人の愛、その深さと大きさ故だろう。もうね、こういうのは演技力とかっていう次元ではないんですよ。技術だけでは埋められないものってあるんです。持ってないものは出せませんから。愛じゃよハリー、愛じゃ。 ひとりの人として生きてきた経験と、培ってきた叡智のひかる、強く美しくひたむきな愛。これが自然で穏やかであるのに印象的だった光の演出とシンクロして、作品全体を包んでいる。だからこそ、マイノリティを題材とした啓発的な印象というより、普遍的な愛を描いた作品であるという印象が強い。これは本当に稀有なことですよ、こんな俳優なかなかいない。何かしらの賞を差し上げたいので、誰かお願いします。 ■聴者とろう者の架け橋に…ふたつの世界をつなぐ映画の力 さて。ここまでベラベラと感想を話しておいてなんですが、この映画、是非とも“当事者”の感想を聞いてみたくなりませんか?私なんぞが寄稿していていいんでしょうか。やります!と手を挙げていながらマジで何様って感じだが、だってこの映画、聴者とろう者の架け橋になってるんだもん。最初に述べた通り、劇伴がない本作。クライマックスの駅のホームでのワンシーン、今まで自分に向けられた母の顔を大がブワーッと思い返す場面で、普通ならとびっきり感動的な劇伴をつけたいはずだが、あえて無音で映し出される。あの数秒間、聴者とろう者のふたつの世界が完全に重なるのだ。想像してもしきれない、と感じた世界と繋がることができる。これってさあ、技術だけでは出来ないことだよねぇ……。映画の持つ力や可能性ってものを、まざまざと見せつけられた気がする。悔しい。 聴者とろう者、そしてコーダ。ふたつの世界で、またその狭間で生きている私たちでも、この映画についてなら“同じ世界”の話ができそうだ。映画の感想は勿論、家族や母親との思春期エピソードも聞かせてほしい。マジで普通に、DMください。語り合いましょう。 文/梨うまい