「70年前、ジャニー喜多川氏から性被害を100回以上受けた」 作曲家・服部良一氏の次男らが打ち明けた加害の実態「事務所設立の目的も〝それ〟では」
吉次さんの父、服部良一は、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」や映画主題歌「青い山脈」「銀座カンカン娘」など、数々のヒット曲を世に送り出し、戦後歌謡界の頂点に立った作曲家だ。第2次世界大戦後に良一は、笠置らとアメリカ公演を行っている。この際、現地で裏方として支えたのが、米ロサンゼルス生まれの喜多川氏だったという。 1950年に始まった朝鮮戦争に、米国籍も持っていた喜多川氏は従軍した。前後して日本に帰国する。服部家に親しく出入りするようになったのは、この頃だ。いちど、軍服姿で家を訪ね、帰るときに異常なほど時間をかけて靴ひもを結び、一言「あー嫌だな、行きたくないな」と言ったことを、吉次さんははっきり覚えている。 あれは、戦地に行きたくないということだったのか。なぜ、彼が自分にあのような行為をしたのかを考えると、朝鮮戦争を経験した心的外傷後ストレス障害(PTSD)も影響したのではないかなどと想像してしまうという。
喜多川氏は1962年、ジャニーズ事務所を創業。その後も服部家とは長年、公私にわたって交流を続けた。しかし、「僕とはほとんど口を利かなかったですけどね。彼は微妙な顔はしていましたね」 1993年に良一が死去すると、喜多川氏は葬儀で服部家の親族席に座ったという。 その年のNHK紅白歌合戦。ジャニーズ事務所の人気グループ「少年隊」は「服部良一メドレー」を歌った。事務所に所属する他のグループも、舞台公演で良一が手がけた曲をしばしばカバーしてきた。 ▽「全部きれいに洗い流してもらいたい」 国民的な人気を誇るグループや歌手らを多く輩出し、ジャニーズ事務所は日本の芸能界で大きな存在感を持つようになった。しかし、喜多川氏が事務所を作った意図を、吉次さんはこう見ていた。 「こういったこと(性的欲求)を合理的に処理したい、自分が思い描くことをしたいと(事務所を)つくられたのでは」 70年の沈黙を経て自身の性被害を公表しようと決意したのは、今年に入り、歌手のカウアン・オカモトさん(27)ら、ジャニーズ事務所の元所属タレントらが相次いで顔を出して告発に踏み切ったことが大きいという。