「生まれ変わったら日本人になりたい」。日本に心を寄せ続けたリサ・ラーソンが人生の最後に手がけた作品への想い
2024年3月11日に、92歳でこの世を去ったスウェーデンの陶芸家リサ・ラーソン。亡くなる直前まで創作活動を続けたリサが、人生の最後に手がけた作品が「ジャパンシリーズ」だった――。短期集中連載の第2回は、リサ・ラーソンと共にジャパンシリーズを立ち上げた「トンカチ」の佐々木美香さんと勝木悠香理さんに話を伺った。 【画像】1981年西武百貨店のリサ展覧会のパンフレット。日本で知られる愛らしい動物たちとはまた異なる表情の作品がならぶ。 ≫【連載をはじめから読む】すべては一通の手紙から始まった――北欧を代表する陶芸家リサ・ラーソンが日本で愛された17年
日本文化への憧れと日本人を思う気持ちから始まったジャパンシリーズ
親日家としても有名だったリサ・ラーソン。意外にも来日したのは2回だけで、初めは1970年の大阪で開催された日本万国博覧会の視察団として、2度目は1981年に西武百貨店で開催されたリサの展覧会のときだった。初来日の際は益子焼の濱田庄司の工房などを訪れ、日本の陶芸について学び、以来、日本文化に強い関心を抱き続けた。 「リサがスウェーデンの自宅にいるときは、剣道の練習着を羽織っていることが多くて、その姿がかわいくて印象的でした。しかも、その剣道着は来日したときに貰ったもので、かれこれ25年以上も愛用しているほど気に入っていましたね」と話すのは、トンカチ代表の勝木悠香理さん。勝木さんたちが帰国する際は、「次は日本でね」というのがリサの口癖で、「生まれ変わったら日本人になって陶芸がしたい」と語るほど、日本に心を寄せていたそう。 2010年には、娘・ヨハンナとの共作絵本『BABY NUMBER BOOK』を日本で出版し、日本とのつながりを深めつつあったリサ。その矢先の2011年に東日本大震災が起こると、「日本のために何かしたい」と立ち上がり、震災直後に「ジャパンシリーズ」というプロジェクトをスタートさせた。
「機能があるもの」に憧れていたリサ
「ジャパンシリーズは、リサ・ラーソンが日本の伝統工芸とコラボレーションすることをテーマにスタートしました。2011年に第1弾としてつくったのが手ぬぐいで、和柄の青海波や市松模様にマイキーを合わせてみたら想像以上に相性がよく、リサも喜んでくれました」と話すのは、トンカチのデザイナー・佐々木美香さん。これを機に、リサの念願だった陶器作品にも取り組み、波佐見焼や有田焼とコラボした箸置きや豆皿なども展開し、新たなファンを獲得した。 「リサは常々、“人の役に立つものや、機能があるものをつくることに憧れる”と言っていました。リサは師匠のスティグ・リンドベリから、食器ではなくて置物をつくったほうがいいと言われて、そのまま来てしまったので、夢が叶ったと言って本当にうれしそうでした」(勝木さん) その一方で、陶芸に関する知識が一切なく、大きな壁にぶつかった勝木さんと佐々木さん。リサや窯元の職人が話す内容を理解できないと、本当につくりたいものがつくれないと危惧し、陶芸教室に通い始めることに。忙しい合間を縫って、週1回のペースで通い続けるうち、2人とも陶芸の楽しさに目覚め、気付けば3年が経ち、リサたちとも対等に話せるようになった。