<スポーツライター藤原史郎の目>広陵と広商 5度目の「春」同時出場/下 20年ぶり 両雄夢舞台へ /広島
広陵と広島商の4回目となるセンバツ同時出場は、1992年の3回目から10年後だった。この間の大きな出来事は、95年1月の阪神大震災。甲子園周辺の被害も甚大だった。2001年には現在も続く「21世紀枠」が新たに創設された。 02年の第74回大会は、前年秋の秋季中国地区大会決勝で接戦を演じた関西(岡山)と広島商、そして準決勝で関西と延長十二回を戦って惜敗した広陵の3校が、一般選考枠で選ばれた。2年目の21世紀枠には、中国地区から初となる松江北(島根)が選出された。 センバツでは、広島商が2勝して準々決勝に進出、広陵も1勝した。広島商は1回戦の初回、樟南(鹿児島)に3点を奪われたが、その後はエースの和田が粘投。中盤に逆転に成功し、終盤にも追加点を挙げて6-3で逃げ切った。続く2回戦でも和田が好投し、鵡川(北海道)に1-0の完封勝ち。準々決勝の鳴門工(徳島)戦では5失点のビッグイニングを3度もつくられ、1-19と大敗。4投手を継投するも防ぎきれなかった。 広陵は初戦で中京大中京(愛知)に4-0で快勝。2年生右腕・西村が散発5安打で完封した。2回戦で優勝した報徳学園(兵庫)と対戦し、相手を上回る12安打を放ちながら、バントミスと失策が重なって終盤に決勝点を与え、3―5で敗れた。西村は翌03年の第75回大会でチームを3度目の優勝に導く原動力となり、卒業後はプロ野球で活躍した。 その後の広島からは、如水館、広島新庄、呉、総合技術などの新興勢力がセンバツ切符を手にした。21年までの18年間、出場回数は広陵が最多の5回、広島新庄が3回(中止された20年を含む)、呉が2回、如水館、総合技術、瀬戸内が各1回。19年の第91回大会で広陵と呉の2校出場があったが、広島勢の選出がゼロだった年も6度あった。 この間、広島商の出場は無く、中国勢の出場校では岡山が延べ17校、山口が延べ14校で、延べ13校の広島は3番目にとどまっていた。22年春、長い雌伏の時を経て、広島商が長年のライバル広陵とともに、センバツに戻ってくる。(「広陵高等学校野球部百年史」「広島商業高校野球部百年史」、毎日新聞などを参照しました)