「Jリーグ史上最大の悲劇」横浜フリューゲルス消滅を避ける方法はなかったのか?
「Jリーグ史上最大の悲劇」といわれる、1999年の横浜フリューゲルスの消滅。数十人もの関係者から証言を引き出し、クラブの成り立ちから消滅に至る舞台裏をつまびらかにしたのが、400ページにわたる大型ノンフィクション『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン刊)だ。この悲劇は何故に生まれ、どんな教訓を残したのか。著者の田崎健太氏に聞いた。 【画像】フリューゲルス最後の試合で優勝カップを掲げるサンパイオ ■クラブ消滅の伏線となった1986年の「ボイコット事件」 ――まず、本書執筆のきっかけを教えてください。 田崎 フリューゲルス消滅20周年のときに、何人かの関係者がメディアで語っていたけれど、深く関わっていた人は誰も出ていませんでした。それ以前に元所属選手の山口素弘さんが本を出したりとかもありましたが、親会社だった全日空の人間が誰も証言していなかったんです。真相を追ってみたいと思ったのが動機です。 『フットボール批評』の連載として始めて、単行本は原稿用紙200~300枚の中編をイメージしていましたが、取材を始めたら知らなかったことが次々と出てきたり、全日空側の人も取材に応じてくれたりして、どんどん長くなっていきました。 ――フリューゲルスからの撤退に関わった、当時の全日空の関連事業本部業務部長の証言も引き出していますね。 田崎 横浜マリノスとの合併をめぐるサポーターとの話し合いの場で激しい言葉を浴びせられた人だから、最初は取材に応じてくれるとは思っていませんでしたが、手紙を書いて取材申請を出すと意外とすんなり受けてくれました。クラブ消滅の責は彼にあるわけではなかった。それにもかかわらず悪役にさせられたことに対して、彼なりに忸怩(じくじ)たる思いがあったのでしょう。 ――そもそもフリューゲルスとは、どんな特徴を持つクラブだったんですか? 田崎 Jリーグの各クラブの母体は鹿島アントラーズなら住友金属、横浜マリノスなら日産自動車、ジェフユナイテッド市原は古河電工というように、企業の福利厚生としてのサッカー部で、選手も監督もコーチもその企業の社員でした。だから、クラブの活動は企業内で完結していた。一方、フリューゲルスの母体は1964年に創設された横浜中区スポーツ少年団から発展した地元のサッカー好きが集まる市民クラブでした。 その後、横浜サッカークラブに改称し、79年には全日空の資金援助を受けて横浜トライスターサッカークラブ、日本サッカーリーグ(JSL)1部昇格を決めた84年からは全日空が設立した子会社、全日空スポーツが運営する全日空横浜サッカークラブになっていきます。 もともとこのクラブはいわば町の不良たち――自費で海外までワールドカップを観に行くほどサッカーに命をかけているサッカー好きの人で成り立っていました。そこに全日空が入ってきて、もともといた〝横浜側〟の選手と全日空の社員選手が混在し、温度差が生まれた。 クラブの運営や契約をめぐって〝横浜側〟と全日空の間で対立が深まり、86年3月には選手6名が試合をボイコットする事件にまで発展しました。世界のサッカー文化を肌で知っていた〝横浜側〟の人たちを大事にしておけば、その後の消滅も避けられたかもしれない、とぼくは思っています。