「家康は本当に“タヌキじじい”だったのか」大河ドラマはどこまで本当? 歴史小説と時代考証を解説
小説やドラマがフィクションなのは当たり前
大河ドラマは、ある人物を描いていくものですから、歴史小説といってもフィクションなのは当たり前です。例えば、大河ドラマ『どうする家康』(2023年)では、主人公が悩んでしまって、「どうする? どうする?」と戸惑っている若い家康からスタートしていました。 この設定はとても面白いのですが、「後半はきついんじゃないかな」と想像しながら見ていました。ドラマの後半で、家康は戦いに向けて突き進んでいきましたが、主演の松本潤さんは笑顔のない家康になってしまいましたね。 ただ、『どうする家康』で僕が非常に抵抗を感じたのは、正室の築山殿(有村架純さんが演じた瀬名)に、「隣国同士で足りないものを補填し合い、武力ではなく慈愛の心で結びつけば戦争は起きない、という話を語らせ、それが家康や家臣に大きな影響をあたえたように描かれた」という、ドラマの根幹に関わる部分です。 これは、音楽評論家・歴史評論家の香原斗志さんも、「デイリー新潮」のネット記事「【光る君へ】同じ創作でも『どうする家康』との決定的な違いとは」で書いていたのですが、全く同感です。私もテレビでこの場面見た時には、ひっくり返ってしまいました。 「戦争ではなく、平和の心を持っていけば、戦いはなくなるんだ」と戦国時代に考えた人がいたとは思えません。現在の平和主義ならともかく「これはあんまりだろう」と思いました。徳川家康が「男女平等こそが一番大事です」とも言ったみたいで、まるで時代小説にスマートフォンが出てきてしまったような違和感がありました。 ※時代考証に関わるおすすめ書籍2(神戸の本棚より) 『時代風俗考証事典』(林美一著、河出書房新社、新装版は2001年刊) 映画、テレビで見知った常識はいかに嘘が多いか。江戸風俗研究の第一人者が、500点の風俗画・図版によって、トイレ、風呂から結婚生活までを微細に描く小項目事典。
現代人には受け入れられない当時のリアル
フィクションであっても、歴史小説的な要素もあるのだとすれば、スマートフォンが出てきちゃいけないし、近代の考え方をそのまま主人公が持っていたというのも、やり過ぎだと思います。 もちろん、時代が違う現代の人間には受け入れられない要素はあります。今、大河ドラマなどでほとんど描かれないのが「首を切る」という行為。戦国時代は、いくつ首を持って帰ってきたかが、戦では一番大きな褒められる理由でした。髷(まげ)を帯に結んでぶら下げて帰ってくるというシーンはないでしょう。だけど実際はそうだったわけです(それをあえて描いた映画が、2023年の北野武監督『首』)。 もう一つ、僕が時代劇で気になっているのは、若いアイドルが主人公を演じた時、月代(さかやき)を剃っていないこと。武士は前髪をそり落として、後ろはちょんまげ。月代をきちんと剃っていないことは、江戸時代の身分社会の中では「侍ではない」と言っているようなもので、あり得ないことなんです。ところが今、そういう場面が多くなっています。ここはけっこう抵抗感があります。 では、女性の鉄漿(おはぐろ)はどうなんだ、と言う方がいるかもしれません。既婚女性は、白い歯を青黒く染めるが当然でした。でも現代の感覚では「気持ち悪い」という感じがすると思うんです。「どこまでを描くか」は、その時代の人、社会、視聴者がどこまで許容できるかにかかっています。 ※時代考証に関わるおすすめ書籍3、4(神戸の本棚より) 『三田村鳶魚江戸生活事典 新装版』(三田村鳶魚著、稲垣史生編、青蛙房) 『江戸編年事典 新装版』(稲垣史生編、青蛙房) 三田村鳶魚(1870~1952)は江戸文化・風俗の研究家。稲垣史生(1912~1996)は時代考証家として1968年NHK大河ドラマ『竜馬がゆく』など数々のドラマで考証を担当した。