子供の「知的能力」は親との「日常会話」で決まる…⁉「生まれ」と「知性」の残酷すぎる関係
「言葉の能力」と社会的格差
知的能力の基盤である読み書き能力について見てみよう。そこにかつて大きな社会格差があり、読み書き能力はごく少数のエリートに独占されてきたことはすでに確認した。かつては読んだり書いたりすることは社会の最上層だけに許された特権だったのである。 だが、今もその格差は消えていない。 「生まれ」と言葉を操る能力との関係については現代日本に限定しても様々な研究があり、それらを振り返ったある研究者の言葉を借りるなら「『階層』と『言語』とのあいだに何らかの関連があることは、ほぼ疑いがない。」(※3)。大学の偏差値と学生の読解力との間に強い関係を見出した新井紀子らの調査もその系譜に含めていいだろう。学力と「生まれ」には関係があるのだから。 そういった知的能力の格差がどのように育まれるのかを突き止めるのは難しいらしい。要因として疑われるのは「塾に通う時間が長いから」とか「家にある本が多いから」といったわかりやすいものばかりではなく、親などのちょっとした習慣が影響している可能性も高い。 教育格差について研究している松岡亮二はこういう例を挙げる。
知性や学歴をひけらかしてはいけない理由
「(注:言語能力の訓練は意識されづらいが)中流家庭の子は、大人から『なんで? 』のような説明を求められることが多いと報告されています……親と日常会話をすることが、学校での評価に繋がる言語的な訓練になっているわけです。一方、社会経済的に恵まれない家庭では、親から『これ、食べなさい』『早く寝なさい』『お風呂に入りなさい』という指示が比較的多く、子どもが何をどう考えているのか言語化して説明することを求めない傾向にあります」(※4)。 こういった知的な習慣や振る舞いの微妙な格差が子ども時代から無数に積み重なり、言語能力の格差、ひいては知的な格差を生み出しているのだろう。 ならば、知性や学歴を自らの達成としてひけらかすことはできないはずだ。それは自力で手に入れたものとは限らないのだから。 後編『同じ日本人でも「庶民」と「エリート」で使う言葉が違っていた…知られざる「知的格差」の歴史を読み解く』に続く… ・・・・・ ※1 『日本の分断』吉川徹、光文社新書 ※2 『学力と階層』苅谷剛彦、朝日文庫 ※3 「日本における『言語コード論』の実証的検討」前馬優策 ※4 https://www.bookbang.jp/review/article/623853
佐藤 喬