「平沢勝栄氏がランチ風景を投稿して炎上」「一方、トランプはマックでバイト」…政治家の「庶民アピール」に見る日米の“センス”の差とは?
その生産の場で働くことは、ナショナル・アイコンの力に寄りかかることにほかならない。食べる側ではなく、食べ物を提供する側に立つということが大きな違いだ。 マクドナルド本社がトランプ氏の店舗訪問とはいかなる関係もないと表明し、火消しに回ったのはその影響を重く見た面もあったのだろう(同社のフランチャイズの店舗は、所有者によって独立して運営されているため、本社の同意なしにトランプ氏の訪問を許諾することが可能だという)。
■パフォーマンス目的であることが見え見え 今回のトランプ氏や日本の政治家に共通して重要なポイントは、先の知見に裏付けられた食事の「境界的」な機能の部分だ。 近代化によって食品の加工技術は進化し、市場が世界化されると、食べ物が「民主化」されるようになると指摘したのは、社会学者のデボラ・ラプトン氏だ。と同時に「このような社会的な変化はあるものの、食べ物は依然として、その値段や希少性、そして何より文化的な意義といった要因から、境界を示すものとして重要である」と述べた(『食べることの社会学 食・身体・自己』無藤隆・佐藤恵理子訳、新曜社)。
この場合における境界の“越境”は両義的である。境界を越えることは侵犯であることを意味するが、隔たりをなくす融和の意味も持ちうる。 マクドナルドを宣伝に利用したトランプ氏への罵詈雑言や、日本の政治家の弁当、牛丼写真に対する反感は、それが自分たちの食文化に土足で踏み込むような「ふざけた侵犯」と受け取られたからだという見方が成り立つ。「庶民的食文化の盗用」と言ったら言い過ぎであろうか。 そもそも融和的な境界越えをしたいのであれば、自らメディア関係者を集めたり、SNSで発信したりするような自作自演はやめるべきだろう。パフォーマンス目的であることが見え見えだからだ。
仮にファストフードのハンバーガーや牛丼が好物で、習慣的に食べているのであれば、いずれその事実は他者を通じて浸透するからである(そのような嗜好があればの話だが)。そのほうが圧倒的に真実性は高い。 ■政治の小道具として古くから用いられてきた このように多様な文脈で見ていくと、興味深いのはアメリカ民主党大統領候補で副大統領のカマラ・ハリス氏が料理作る様子を動画配信をしていることだ。 「ハリスは料理動画を選挙運動に利用し、飢えや農場労働といった食料問題にとくに関心を注いできた。それだけでなく、瞑想する方法としても料理を活用する」という(「ハリスほど料理の力を知る政治家いない」 リスクも踏まえ、あえて動画でアピール/2024年8月26日/朝日新聞GLOBE+)。
同記事中にもあるように、食べ物は、政治の小道具として古くから用いられてきた。今であれば、料理を作ったことがあるか、スーパーに並んでいる食材の価格を知っているか、産地や農家の状況に関心があるか等々、そういった日常的な感覚の有無は政治家の信頼度に関わる。食料政策や農業政策に対する姿勢に反映されると考えるのが普通だからだ。 食は国民性と切り離せない文化であり、安全保障の要でもあり、わたしたちのアイデンティティに直結している。食をめぐる議論は想像以上に燃えやすいことは念頭に置いておくべきだろう。
真鍋 厚 :評論家、著述家