現代ではありえない、婚姻形態が政治を変えた平安時代。日本の歴史からやがて消えた、男性が女性のもとに通う婚姻スタイル「招婿婚(しょうせいこん)」とは?
婚姻形態と政治が結びつき、その結果、日本の歴史が変わった
「招婿婚」から「嫁取婚」への婚姻形態の移行は、政治にも大きな影響を与えます。 すでにご説明したように、招婿婚の時代に行われた摂関政治は、天皇の母方の祖父が権力を握る形態でした。繰り返しになりますが、招婿婚は女性側が主導権を持つ婚姻スタイルです。 まさに天皇の母方の家族、すなわち外戚が主導権を持つ摂関政治は、招婿婚の中で母方の政治発言力が高まった末に生まれたものだったのでしょう。 しかし、家族形態が直系家族へと変化し、婚姻制度が招婿婚から嫁取婚へと変化し、母方の存在感が弱まるうちに、摂関政治も力を失っていったのでしょう。もっとも、これは卵が先か、鶏が先かという理論と同じく、婚姻形態が変わったから政治構造が変わったのか、はたまた政治権力の構造が変わったから婚姻形態も変化したのか、その因果関係はわかりません。 しかし、婚姻形態と政治が結びつき、その結果、日本の歴史が変わったことには間違いないでしょう。 女性が主導権を持つ招婿婚から男性が主導権を持つ嫁取婚へと婚姻形態が変わりつつあった頃、天皇の母方の祖父が権力を握る摂関政治から、天皇の父方の祖父や父などの尊属が権力を持つ院政へと移り変わっていきました。
摂関政治の不安定さで、藤原氏は没落していった
なぜ政治形態が変わっていったのか。 大きな理由のひとつは、摂関政治の不安定さにあったのではないかと僕は考えます。先にも述べたように、摂関政治は娘が生まれ、なおかつその娘が天皇の子どもを身ごもることで完成するもの。非常に偶然性に左右されやすい脆弱な政治形態です。 事実、藤原氏は平安時代の後期になると急速に力を失っていきますが、その原因となったのは「次期天皇が生まれなかったから」なのです。 藤原道長といえば、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という有名な歌にあるように、摂関政治の最盛期を築いた人物です。 その栄華は、宇治の平等院鳳凰堂を建てた、道長の息子・頼通の時代までなんとか続きました。しかし、この頼通の晩年近くに台頭するのが、天皇の父や祖父が権力を握る「院政」でした。 院政が始まるきっかけとなったのは、皇族の両親を持つ後三条天皇の存在です。 平安時代の歴代の天皇は、藤原氏の母親を持つことが一般的でした。しかし、後三条天皇は、約二百年ぶりに藤原氏を母親に持たない天皇として即位しました。 皇族の血が強い天皇が即位すれば、当然藤原氏の権力は弱体化します。 にもかかわらず、なぜ藤原氏は後三条天皇の即位を阻止できなかったのかといえば、藤原氏の血を引く天皇家の男児が生まれなかったからです。 まさに、摂関政治が偶然性に頼り過ぎていて、非常に脆弱な政治構造だったからこそ、起こった出来事だと言えます。 文/本郷和人 ---------- 本郷和人(ほんごう かずと) 1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『空白の日本史』『歴史のIF(もしも)』『日本史の論点』『最期の日本史』(扶桑社新書)、『東大教授が教える シン・日本史』(扶桑社)、『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)、『歴史学者という病』(講談社現代新書)など多数。 ----------