[懐かし名車旧車] 日産ブルーバード(510型):サファリラリー挑戦から生まれた、現代のクルマでは当たり前の装備とは?
「走る実験室」と言われたモータースポーツシーンからは、今日の市販車では当たり前になった、多くの機能や装備が生まれた。今では誰もが給油のたびにお世話になっているあの便利装備も、じつはブルーバードのラリーへの挑戦から生まれていたのだ。 【画像】[懐かし名車旧車] 日産ブルーバード(510型)
“壊れないクルマ”を証明した日本車の海外ラリー挑戦、現場ではさまざまなパーツが開発された歴史あり
今どきの日本車は、オイル交換などの最低限のメンテナンスさえしておけば、壊れるリスクはかなり低い。日本国内だけでなく、じつは世界でも常識となっているその高い信頼耐久性が確立されたのは、おおむね1970年代以降のことだ。じつは1950年代に初めて海を渡った初代クラウンやダットサンは、アメリカのフリーウェイの速い流れに乗るだけでたちまちオーバーヒートしてしまい、撤退を余儀なくされる苦汁を味わった歴史がある。 日本国内でも、当時のユーザーのクルマ選びの最大の基準は壊れないことだった。まだ国道1号線にさえ未舗装区間が残り、晴れれば埃だらけの凸凹路、降ればぬたぬたの泥沼と化す劣悪な道路環境では、普通に走っていても振動や路面との接地に起因するトラブルは日常茶飯事だった。しかも、1960年代までのセダンのおもなユーザーはタクシー業界。一般ユーザーのはるか上を行く酷使に耐えることが求められ、その評価がマイカー族の評判にもつながったのだ。 そこで国産メーカーが耐久信頼性の確認と宣伝を兼ねて挑戦したのが、海外の過酷なラリー。中でも熱心だったのが日産だ。 戦後、英国のオースチンのノックダウン(部品を輸入して国内で組み立てる)生産で乗用車作りを学んだ日産は、自社開発のダットサン110型を経て、1957年にダットサン210型を発売する。その頑丈さを証明するために1958年にオーストラリア一周ラリーに挑戦すると、出走67台中、完走わずか34台という過酷なラリーに出場した2台がともに完走し、1台はクラス優勝という快挙を達成したのだ。 そのニュースが新聞などで華々しく報じられると、日産の株価はたちまち上昇し、クルマの売れ行きも目に見えて伸びた。そこで日産はさらなる実績作りを目指し、カーブレイクラリーの異名を持つ、世界でもっとも過酷といわれたサファリラリーへの挑戦を決めたのだった。 初挑戦は1963年。310型初代ブルーバードと初代セドリックで挑むも、全滅。翌1964年は410型2代目ブルーバードとセドリックで、セドリックが総合20位に入る。1965年に挑んだ410型ブルーバードはあえなく全車リタイアするが、翌年、同車が総合5位と6位に入り、ついにクラス優勝も果たす。 そうした歩みを経て、1967年に登場した真打ちが、510型3代目ブルーバードだった。