若草山の山焼きの起源は? 古都・奈良の早春を告げる風物詩と古墳のハナシ
正月行事が終わると、奈良では山焼きが行われます。「若草山の山焼き」です。例年、奈良県の人はもちろん、各地から観光客が訪れて一夜の炎の祭典を楽しみます。今回はそんな伝統行事と、若草山頂上にある「鶯塚(うぐいすづか)古墳」についてお話ししていきたいと思います。 ■伝統行事の舞台・若草山とその頂上に聳える古墳 若草山の山焼きはまず神事から始まります。飛火野には「大とんど」という巨大なお焚きあげの祭壇が築かれています。竹で囲まれたそこには、去年のお札や破魔矢、お守りなどが大量に納められていて、昼間に行われる神事が始まり、春日大社から運ばれた清らかな御神火(ごしんか)が移されて、壮大な炎が立ち昇ります。その炎から採火した火を、行列で水谷神社・野上神社に運び、日が暮れてからさらに松明に分けられます。このたくさんの松明を消防団の人たちが手にして若草山に登るのです。 若草山は三段になった山で、別名を「三笠山」ともいいます。同じく近くにある「御蓋山」とは音は同じですが字も違います。若草山は春に新芽が萌え出して大きく育った草々が枯れて、茶色く山肌を覆っています。 火をつける前に数百発の花火が打ち上げられて、それが終わるといよいよ着火です。山焼きのポスターや写真などには、全山が真っ赤な炎で覆われ、その直上に大輪の花火が舞っている様子が使われますが、あれは合成写真なのです。実際にあのような景色になることはありません。 打ち上げ花火→着火→じわじわと炎の筋が山頂に向かって静かに燃え広がるのです。あの美しく派手な景色を期待していくと、そのギャップに驚くことでしょう。 奈良市内を東から見下ろす若草山は標高342mの三段になった小高い山なのですが、その頂上には前方後円墳があります。4世紀後半から5世紀に造られたとみられる「鶯塚古墳」です。 昔は仁徳天皇のお后だった磐媛(いわのひめ)の墳墓だといわれたこともあったそうですが、全長が103mの立派な古墳で、おそらく今の奈良市内を領地とした古代豪族王の墳墓だと思われます。 清少納言の『枕草子十七段』にも登場する古墳らしいので、大昔からその存在は知られていたのでしょう。ところが1000年以上にわたって奈良の神鹿(しんろく)や人間たちが自由に墳丘を歩いたせいで、前方後円墳としての墳形はかなり荒らされています。 そこで、東京大学大学院で考古学を研究する院生が、ドローンを使って正確に墳丘を計測したところ、前方部の先に、四角形の島型を発見したのです。 これは4世紀に築造された古墳にみられるもので、古墳を囲む周濠を海、または池と考えて、そこに水鳥の埴輪を飾り、島をつくるという形式が他の古墳群にも見られます。大阪府藤井寺市の津堂城山(つどうしろやま)古墳から水鳥埴輪が三体出土しています。 水鳥はあの世とこの世を自由に行き来できる霊鳥だと位置づけられていたようです。残念ながら長い間に荒れてしまった鶯塚古墳からはそのかけらも出てきませんが、島型の発見は貴重です。 実は若草山の山焼きがいつからどういう理由で始まったのかというと、「わからない」というのが正直なところのようです。しかしながら説はさまざまありまして、東大寺と興福寺の領地争いが発端だったといわれていましたが、今は否定されています。 私が面白いと思った説は、「鶯塚古墳の幽霊が出るので、これを慰め封じるために山を焼き始めた」という話です。でも実際のところは、縄文時代から続くと思われる焼き畑祭の名残ではないか? とも思います。 毎年必ず焼かれる若草山は「ノシバ」という日本固有の芝で覆われていて、近畿地方では若草山周辺が数少ない自生地だそうです。ノシバの種は硬い殻に守られていますが、鹿が食べるとその体温と胃液で外殻が溶けて糞に混じってバラまかれ発芽を容易にしているらしく、これも奈良ならではの再生サイクルなのですね。 結局いつから始まったのかははっきりしませんが、いくら禁止令が出ても毎年1月には焼かれた山だそうです。そして明治になって行政の正式な行事となり、明治33年から県による夜間の開催となったそうです。 現在は春日大社、興福寺、東大寺、そして金峯山寺も協力しての神事として受け継がれ、火消しの専門家である消防団の皆さんの点火と監視で安全に行われているのです。 今年も天候にもよりますが、1月27日(土)に若草山の山焼きが開催されます。美しく壮大な花火の後に、静かに燃え広がる山焼きを楽しみにいたしましょう。
柏木 宏之