働くことに潜む「呪い」(4) 高収入=いい仕事? エライ人?
仕事における収入の高さは何を意味する?
しかし、ここで立ち止まって考えたいのは「仕事における収入の高さとは何を意味するのか」ということです。改めて言葉にすれば当たり前ですが、収入の高さは、その人の人間的な魅力の高さを示すものではありません。あくまで仕事における成果や能力を評価したものです。また、そもそもの仕事の性質や社会状況によっては、どれだけ社会的に意義のある仕事でも、収入が上がりづらい仕事(介護、保育、教育といった分野が思い浮かびます)というケースも多くありえます。だから、給与が高ければ高いほどその仕事はよい仕事であり、その仕事についている当人は優れた人間である、とはいえないのです。 ここに働くこととお金をめぐる「呪い」への道が開かれています。それは、「周りよりも収入の高い仕事についている自分(または相手)は周りよりもすばらしいのだ」、あるいはその逆で、「周りよりも収入の低い仕事についている自分(または相手)は周りよりも価値がないのだ」というように、賃金という仕事上の評価を自分自身の人間的な評価や承認と重ねてしまう呪いです。 高専生との授業で、働くことをテーマに哲学対話を行っていても、自由な競争のなかで努力して賃金の高い仕事に就く、ということをとても意義のあることだと考えるような意見を耳にします。この意見そのものは自身の人生の価値観として十分に尊重可能なものですが、この価値観でいつも自分も他人も評価するようになると、いつか自分自身を苦しめる呪いにもなりうるでしょう。 また、ある時点では働くことができなくて、やむを得ず、たとえば生活保護のような制度などでお金を得ている人を「働くことによって十分な賃金を得ておらず、人間的な評価としても低い人だ」と考えるならば、それは間違った価値観ということもできるでしょう。
収入と評価が密接に結びつく日本社会
正当な報酬をもらうことで自分の社会的な価値を確認しなおすのは、仕事とお金の大切な側面です。しかし、お金があればあるほど、自動的にその人が偉い(すごい)、というのは私たちの自分自身や他人への評価の可能性を大変狭く、偏ったものにしてしまうでしょう。 ですが、恥を忍んで正直に言えば、私自身もこの呪いから自由ではありません。 高専に就職したことで、常勤の職を得て安定した給与をいただくようになりました。月給とは別に賞与(働いた分とは別にお金がもらえるなんてまさに「ボーナス」です)もあります。たまたま様々な幸運と縁があって自分がこの立場にいるだけで、自分自身はほとんど成長していないと思っているにも関わらず、昨年度の非常勤を積み重ねていたときよりも、少し自己評価が上がった気がしています。 ここまでは自然なことかもしれません。ただ、これを裏返して、周囲に対する自分の目線のなかに、「定職を得ているか、そうでないか」という区別を人の評価に反映させているということが全く無いか、と問われると、答えに窮してしまうところがあります。それが呪いであることは十分にわかっていながらも、身近な人たちと接するときに、その人がしている仕事の内容や収入といったことを頭に思い浮かべながら話してしまっている自分に気づくときがあります。 私自身が十分に呪いから抜け出せないのは、私自身の弱さが一番の原因ですが、一方で私たちの社会は仕事(とそれによって得られる収入)とその人の評価を強く密接に結びつけるような仕組みで動いている、ということにも気づかされます。ビジネス系の雑誌やセミナーはとても根強い人気ですし、お金持ちの成功者の美談や哲学をつづった本も書店に多く並びます。特別に意識したくなくても、仕事上成功した人が高い評価を得ている様子は探すまでもなく私たちの生活のいたるところに見られます。