「日本を呪縛する学歴の不条理」、東大こそは諸悪の根源? 話題書を読む
吉野作造の「急変」
問題は吉野である。当初は処分取り消しを求めて京大法学部長の佐々木に談判した吉野だったが、佐々木との面会以降、態度を急変させた。吉野は杉之原に再会するなり、「君、これは、今年はむずかしい。1年間がまんしろ」と説得したという(『波瀾萬丈』)。要するに、東大入学は諦めろということである。前出の『読売新聞』は、東大法学部における「入学取消の主唱者」は実は吉野であるという説を紹介している。 杉之原はこの時、「大正デモクラシー」の旗手である吉野に対する尊敬の念が一気に吹き飛ぶのを感じた。吉野が態度を急変させたことが悪いのではない。問題は、その説得のやり方である。吉野は「1年くらい学校がおくれても大したことはない。私も1年、東大を出るのがおくれているが、いまでは官等、勲位など高等学校同期のものとかわりがない」と杉之原を慰めたという。 この吉野の言葉が、杉之原にはショックだった。民本主義者として知られた吉野が、実は官等や勲位の上下を気にしていたことがわかったからである。この日以来、杉之原は吉野に寄りつかなくなった(杉之原前掲書)。 八方塞がりとなった杉之原は、「もう官学に愛想が尽きましたから早稲田大学の政治科へでも入れて頂きたいと思つてゐます」と新聞に語った(前掲『読売新聞』)。これは末弘が早稲田の中村萬吉教授に杉之原を紹介したことによる。 ちょうど杉之原が早稲田入学の決意を固めた頃、事態は大きく動いた。京大法学部長の佐々木が、来年復学願を出せば受理すると末弘に伝えてきたのである。最初からそこを落としどころにしていたのか、新聞沙汰になったので慌てて事態の収拾を図ったのかは定かでない。早稲田の中村教授も「京大へいけるなら、そのほうがよい」と杉之原を諭し、念願の東大入学は叶わなかったものの、京大に復学できることになった(杉之原前掲書)。 京大生の東大(再)受験が決して珍しくなかったことは、杉之原自身の談話や、一高の谷山初七郎教授の談話からも明らかである。杉之原は、ほかの京大生も東大を受験しているのに、不合格者は軽い処分で済み、合格した自分だけが放校になるのは不公平だ、と佐々木に抗議した。杉之原がのちに「京大の東大への対抗意識というか、感情的なものがあったことはいなめない」と回想したように、見せしめとして処分された感がある。 一高の谷山は、この年から急に京大の他大受験に対する取締が厳格になったことを指摘しているが、それは京大当局の強い危機意識によるものだろう。実は、当初杉之原を支援していた吉野が佐々木との面談後に態度を急変させたのは、「学生が皆東京を望んで転校すると云ふ事になれば京都の大学も困る」という、京大側の事情を呑み込んでのことだった(前掲『読売新聞』)。 『「反・東大」の思想史 』(新潮選書、尾原宏之著)
Forbes JAPAN 編集部