ウクライナ侵攻、15年前の警鐘はなぜ無視されたのか 国土の2割を奪われた国の悲劇、ロシアとジョージアの5日間戦争
ロシアと隣国のジョージア(グルジア)との戦争が2008年8月に勃発してから15年になる。欧州における21世紀初の国家間戦争となった同戦争は、ロシア軍が勝利し、ジョージアの領土の2割近くを占拠する形で終結した。 旧ソ連近隣国への侵攻・領土占領という面で現在のウクライナ侵攻と重なる。その後のロシアの対外政策に対する警鐘となったはずだが、西側各国は自らの国益に重きを置き、14年のロシアのクリミア併合、ウクライナ東部ドンバス紛争に続く今回のウクライナ侵攻を許してしまった。現地で戦争を取材した筆者の視点を踏まえ戦争の経緯や、その後に西側各国がどのように対応したのか振り返ってみたい。(共同通信=太田清) ▽分離独立要求 1991年に旧ソ連から独立したジョージアは2008年当時、自国内に分離独立を求める2地域を抱えていた。最西端のアブハジアと、イラン系のオセット人が多数住む中部南オセチアだ。このうち、南オセチアの支配権を巡りロシアとジョージアの間で行われたのがこの戦争だった。
オセチアはソ連時代、北部の北オセチアがソ連内のロシア共和国に、南部の南オセチアはジョージア共和国にそれぞれ帰属。ロシアとジョージアがソ連という一つの国であった時代はその関係は問題とならなかったが、ソ連崩壊後にロシアとジョージアが独立したことで、南オセチアはジョージアから分離しロシア領北オセチアと統合することを要求。一方、ジョージアは主権維持を主張、関係は険悪化した。 ソ連崩壊後、双方の間で内戦が勃発したが1992年に停戦。しかし、2003年にそれまでロシアと欧米の間で中立的政策をとっていたシェワルナゼ政権が倒れ(バラ革命)、親欧米のサーカシビリ政権が誕生すると、ロシアを後ろ盾とする南オセチアとジョージアの関係はさらに悪化した。 ▽首都陥落の危機 08年になりジョージア領内で同国軍の無人機がロシア軍に撃墜されるなどの事件があり、双方の対立は一触即発の状況となった。同年8月7日、南オセチア領内で戦闘が始まったが、ロシア軍が圧倒的戦力で同領内からジョージア軍を追い出したのみならず、ジョージア領内やアブハジアに侵攻。ロシア軍はスターリンの生地として有名な中部ゴリや西部の港湾都市ポチを占領、首都トビリシの西数十キロまで迫った。