『孫子』は日本人に向いていない? 研究者が明かす「孫子に適した国」とは
言うは易く、行なうは難し
クラウゼヴィッツの『戦争論』は、ドイツ観念論の流れを汲んだわかりにくい文体をしている。対して『孫子』は平易な文章で、当たり前のことを書いている。 しかしかなり抽象的であるため、理路整然とした『戦争論』に比べて解釈などが分かれ、さらに具体的な応用が難しくなっている。 まさに「言うは易く、行なうは難し」が『孫子』である。 当たり前のこととは根本的なことであるが、これを守れるか、これから逸脱しないかは各人に委ねられた課題となる。加えて合戦についても思想書、哲学書としても価値があるものだから、百家争鳴になりかねない。 中国語の難しさは日本語とは異なる。日本語の難しさは、たとえば「科学者は飛行機から降下するパラシュートを観察している」という文章があったときに「科学者が下から、飛行機から降下するパラシュートを観察している」と「科学者が飛行機の中から、降下するパラシュートを観察している」という2通りの解釈が成り立つ。句読点の1つでまったく違ってしまうというのが、日本語の難しさである。 対する中国語の難しさは、表意文字であるから、複数の意味を兼ね備えることで、「兵」は「戦争」「軍隊」「戦略」「戦術」「兵隊」等、実に多岐な意味を持っている。しかも平易、抽象的、簡潔ときているから、『孫子』は実に多くの解釈が成り立つ。
「机上の兵学」化が進んだ
かつて、日本人には戦略的思考がないという問題提起がされ、いわゆる戦略論争と呼ばれるものが起こったことがある。もちろん、戦国時代や南北朝時代を学んだ者なら、日本人が戦略的思考ができないという意見を一笑に付すことだろう。しかし現代の日本に戦略的思考がないのも事実である。 現代の日本に、なぜ戦略的思考がないのかは、太古の時代より『孫子』を受容していた日本の歴史を概観することで理解できるのではないか。少なくとも問題の原因と起源は推察できるのではないか。 それは、日本ではどのように『孫子』を受け入れたか、そのどこに問題があったかを考察することで紐解く、という作業ともなっていくのだろう。そして、それは日本に独自の戦略書が見当たらないのとも連動しているのではないか。 もちろん、戦前においても陸軍少将・大場弥平に代表されるような『孫子』評価が皆無であったわけではない。大場氏の『名将兵談』は簡単な読み物の形式をとりながら、古今の戦史を分析して評価しているが、『孫子』以下の兵法の言葉が全編にわたって鏤(ちりば)められている。 とくに興味深いのは「孫子とクラウゼヴィッツ」の比較を行なっていることである。その相違が強調される傾向が強い両者の比較を、共通点を中心に論評している。 また「攻守」についても触れているが、基本的には攻勢原理として捉えている。ただ、『孫子』のどの部分が強調されているかについても含めて評価は分かれるものと思われる。 しかし江戸時代を経て『孫子』そのものが思想的学問と化し、今日の多くの戦略家研究に見られるがごとく「机上の兵学」化が進んだことに加え、『闘戦経』でも批判されているように『孫子』を卑怯と見なす風潮が存在しているため、日本の風土にはなじまなかったようである。
海上知明(NPO法人孫子経営塾理事・日本経済大学大学院政策科学研究所特任教授)