「ドゥンガはフリューゲルスとの契約に乗り気でした」サンパイオ獲得の裏側【横浜フリューゲルス消滅の”真実” 第3回】
私はサンパイオはどうだって答えたんです
日本サッカー界の「汚点」―― 日本で最初に本物のクラブチームとなる可能性があった「フリューゲルス」を潰したのは誰だったのかに迫った『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』より、「ブラジル人トリオ獲得の『裏側』1993-1994」を一部抜粋して公開する。(文:田崎健太) ---------------------------------------------------------- ドゥンガこと、カルロス・カエターノ・ブレドルン・ヴェーリは1963年にブラジル南部のリオ・グランジ・ド・スール州で生まれた。州都ポルトアレグレのインテルナシオナルでプロ契約を結び、コリンチャンス、サントス、イタリアのフィオレンティーナなどを経て、ドイツのVfBシュトゥットガルトに所属していた。 「人づてになんとかドゥンガの電話番号を手に入れて、横浜フリューゲルスからの話があるけれど、興味があるかと電話しました。すると、何かの試合で、(イタリアの)ミラノまで行くのでそこで会おうと。全日空(スポーツ)に報告して、担当の丹野さんとイタリアで落ち合うことにしました」 丹野裕氏は79年に全日本空輸に入社、ヨコハマトライスターに加わった大卒一期生のゴールキーパーである。大江と同期にあたる。現役引退後は、全日空スポーツの立ち上げに関わり、チーム編成を担当していた。 待ち合わせ場所に指定されたミラノの瀟洒なホテルのロビーに、ドゥンガは1人で現れた。 「ドゥンガはフリューゲルスとの契約に乗り気でした。1時間後に来る代理人と話して欲しいということになったんです」 ドゥンガの代理人は、アントニオ・カリエンドというイタリア人で、イタリア代表のロベルト・バッジオ、ブラジル代表のアウダイールなどを顧客としていた。 「ドゥンガはカリエンドを紹介して帰っていきました。翌日、ぼくたちはカリエンドが住んでいたモデナに行くことになりました。ドゥンガはカリエンドとサッカースクールをやっていたんです。そこを見学した後、レストランで食事しましたね」 カリエンドもフリューゲルスとの契約に前向きだった。しかし、契約開始時期が問題となった。ドゥンガとシュトゥットガルトとの契約が翌年6月まで残っていたのだ。 欧州の主要リーグは7月からの1年間を区切りとする「秋春制」を採用している。一方、Jリーグは2月からの「春秋制」である。 「全日空(スポーツ)は次のシーズン開始から契約を結びたいという。早めるのならば移籍金が必要になる。全日空側は、移籍金分を惜しんだというよりも、そのお金があるならばドゥンガに払って気持ち良くプレーして欲しいと考えていた」 双方の思惑が噛み合わず、ドゥンガの移籍は立ち消えとなった。6月の契約終了を待ってドゥンガと契約を結んだのはジュビロ磐田だった。 「ブラジルで誰か他にいい選手はいないかって全日空スポーツから聞いてきた。私はサンパイオはどうだって答えたんです。すると木村文治さんが、サンパイオはすごい選手だ、アタックしてくれと言いました」 セザール・サンパイオは、1968年3月にサンパウロで生まれた。86年にサントスFCとプロ契約、90年にブラジル代表に招集された。91年、パルメイラスへ移籍、93年と94年にサンパウロ州選手権とブラジル全国選手権の両方を制していた。この時期のパルメイラスは煌めくような才能を持つ若手選手が揃っており、90年代を通してブラジル最良のチームの一つとされる。 ブラジルのほとんどのサッカークラブは、ごく一部の人間、「カルトーラ」と呼ばれる人間が権力を握っている。彼らは結果を残した選手を次々に売り払い、自分の懐に金を収める。そのため中長期的に一定以上の戦力を保つクラブはごく僅かである。パルメイラスはその数少ない例外だった。 パルメイラスを運営していたのは、イタリアの多国籍食品企業『パルマラット』だった。パルマラットは地元パルマを本拠地とするACパルマに加えて、92年からパルメイラスを傘下に収めていた。その他、フランスのオリンピック・マルセイユ、ポルトガルのベンフィカ、アルゼンチンのボカ・ジュニアーズとエストゥディアンテス、チリのウニベルシダーデ・カトリカ、ウルグアイのペニャロールなどの主たる資金提供者となっていた。 坂本がパルマラットに連絡を取ると、フリューゲルスの委任状を送るように指示された。 「委任状をファックスで流し、次の日に会うことになりました」 パルメイラスに限らず、ブラジルのクラブはサッカーの他、他競技のチームを含めた総合スポーツクラブである。パルメイラスのサッカー部門の責任者はジョゼ・カルロス・ブルノロという男だった。バレーボールの選手であったブルノロは引退後、フィジカルトレーナー、指導者に転じた。84年のロサンゼルスオリンピックにブラジル男子代表のアシスタントコーチとして参加、銀メダルを獲得している。パルマラットがパルメイラスの経営権を取得した92年からサッカー部門の責任者となっていた。 (文:田崎健太) 田崎健太 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。 主な著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『辺境遊記』(英治出版)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2018』(集英社)。『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)、『ドライチ』(カンゼン)、『真説佐山サトル』(集英社インターナショナル)、『ドラガイ』(カンゼン)、『全身芸人』(太田出版)、『ドラヨン』(カンゼン)、『スポーツアイデンティティ』(太田出版)。
フットボールチャンネル編集部