【人生の謎】失ったものが教えてくれる、本当の幸せの見つけ方とは?
「自分は何も持っていない」「いつも他人を妬んでしまう」「毎日がつまらない」――誰しも一度は感じたことのある、やり場のない鬱屈した思い。そんな感情に寄り添ってくれるのが、クリープハイプ・尾崎世界観氏も推薦する『ぼくにはなにもない 愛蔵版』。この記事では、著者の齋藤真行氏に教えてもらった「ネガティブな気持ちを解消する方法」を紹介する。(構成/ダイヤモンド社・林拓馬) ● 失うことと得ることは表裏一体 人生には、得ることと失うことが表裏一体となっていることが数多くあります。 この二つは切り離せない関係にあり、私たちは何かを得ると同時に何かを失い、何かを失うことでまた新しい何かを得ています。 このプロセスをどのように受け入れ、そこから喜びを見つけるかが、幸せな歩みを形作る鍵と言えます。 私自身の例ですが、自分にとっての象徴的な思い出の一つに、学生の頃友人たちとインスタントコーヒーや缶コーヒーを飲んで談笑した記憶があります。 あのコーヒーは今考えてみても驚くほど美味しく、心が温まるものでした。 その後社会人になり、喫茶店でコーヒーを飲むようになりました。 学生時代に飲んでいたコーヒーと比べると高額で、当然美味しいはずです。 しかし、美味しいと言われているどんなコーヒーより、私にとってはどうしても当時友達と飲んだあのコーヒーの方がずっと美味しいのです。 きっと、コーヒーそのものの味以上に、友人たちとの関わりやその場の雰囲気が作り出した「あの時」が、格別なおいしさを生んでいるのでしょう。 当時のコーヒーは、もう2度と飲むことはできないと感じています。 ただ、こうした「失ったもの」を嘆くだけではなく、今の自分が得ている新しい喜びにも目を向けることができます。 最近、筋トレや散歩といった運動を通じて、以前にはなかった形の喜びが感じられるようになりました。 学生時代、ある哲学教授から「自分の身体も他者である」という言葉を聴きました。 「私」そのものと「私の体」が別物であるという考えに衝撃を受けました。 今、自分の身体を「一人の友人」として考え、その友人と交流し、切磋琢磨をするという発想を持つことで、新しい喜びを見つけています。 屋外で運動しながら日光を浴びる時間は、どこか原始的で新鮮な感覚をもたらしてくれます。 遠い昔に戻るような感覚でもあり、事務的なことに取り囲まれている現代の忙しい日常の中では忘れられがちな、人間としての生存本能に触れるような時間です。 筋肉や心肺機能に負荷がかかるのは苦痛のはずですが、この苦痛の裏返しとして湧き上がる喜びがあるわけです。 こうした体験を通じて気づいたのは、得ることと失うことのバランスの中で、哀しみばかりか喜びを見つけることもできる、ということです。 私にとって、仲間と飲んだコーヒーの喜びは薄れてしましたが、今は太陽のもとでの運動という形の幸福を得ています。 過去の失われた喜びに執着するばかりでなく、現在得ているものに目を向けることで、失うことによって得たものはなんであるのか、見つけることができます。 失いながら受け取っていくのが私たちの生き様で、この両面をしっかり受けとめてバランスを保つことが大切です。 (本記事は『ぼくにはなにもない 愛蔵版』の著者、齋藤真行氏が特別に書き下ろしたものです)
齋藤真行/さいとう れい