「友だちがいなくて、早く、明日へ行きたかった」 転校先で孤独を抱えた詩人・向坂くじらが合唱に心ひかれた理由
転校先になじめず、仲間外れに
国語教室ことぱ舎代表を務める詩人の向坂くじらさん。詩集『とても小さな理解のための』、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』などで知られる彼女は小学生時代、転校生としての孤独を抱えながら、ある合唱曲に心を寄せていた。それはいったい? ***
歌っていた。友だちがいなかった。合唱をしている時間だけは、自分の声とみんなの声とがきちんと混ざる。それではじめて、「みんなとわたし」ではない、一緒くたの「みんな」になれる。歌はひとりの声ではとても出せないようなうねる力を抱え、音楽室をふわーっと上昇する。山ほどの嫌いなことのなかで、その上昇は好きだった。 小学6年生に進級する春、名古屋から横浜へ引っこした。父の仕事の都合だった。もともと人づきあいが器用なたちではない。5年かけてできあがってきた人間関係にいきなりなじめるわけもなく、当然のように仲間はずれにされた。登校しても教室に行く気が起きない。昇降口で上履きに履きかえたあと、右手に教室へ続く階段が、左手には保健室があって、3回に1回は左に曲がった。主な話し相手は、そこで会う生活指導部の教師だった。 やがて彼女のはからいで、彼女が顧問をする合唱部に入ることになった。「みんなで歌う」ということが、陰気な子どもによい変化をもたらすと期待したのだろう。実際、合唱は楽しかった。練習中にほかのクラスの子と話すこともあった。でも、だからといって、放課後に遊ぶような友だちができるわけではなかった。
「怪獣のバラード」に共鳴して
卒業を控えた3学期、「怪獣のバラード」の練習をしていた。2部合唱で、そこまで派手ではないけれど、好きな曲だった。砂漠にのんびり暮らす一匹の怪獣。ある朝、遠くで鳴るキャラバンの鈴の音を聞く。曲の盛り上がりと共に、怪獣はさけぶ。 「海が見たい 人を愛したい 怪獣にも心はあるのさ」 わたしはソプラノだから、いちばん高いパートを歌う。海が、見・た・いと音が上がって、その張りつめたテンションのままに、「人を愛したい」が続く。息めいっぱいに歌いながら、ああ、なんていい歌詞、と思った。確かにそうだ。友だちがほしいと思うとき、すぐ、愛されたいと思ってしまう。でもそれより前に、そうだね、怪獣、愛したい。怪獣はさらに続ける。 「出かけよう 砂漠捨てて 愛と海のあるところ」 誰かを好きになりたい。そしてその気持ちは、「海が見たい」に並べていいような、みじめさのない、明るくひらけた心なのだ。そんなふうに思えたことが、そのときうれしかった。誰かに好かれることを待つだけでなく、自分から誰かを好きになっていい、砂漠に凛(りん)と立つ自分。そして、そうだね、怪獣。いまそうできないなら、ここではない場所へ出ていくしかないのだね。 「海が見たい」のところでアルトはコーラスに回り、ソプラノだけがその歌詞を歌う。見・た・い、と上がっていくとき、メロディーを共に歌うパートがなくなると、ふと、自分の声だけがはっきり聞こえる瞬間があった。喉を抜けるひとりぼっちのソプラノ。かと思えばすぐにアルトが合流して、歌は巻き上がるようなうねりを取り戻す。 「新しい太陽は燃える 愛と海のあるところ」 歌っていた。もうすぐ卒業だった。友だちがいなくて、早く、明日へ行きたかった。 向坂くじら(さきさか・くじら) 1994年名古屋生まれ。詩人。国語教室ことぱ舎代表。著書に詩集『とても小さな理解のための』、エッセイ集『夫婦間における愛の適温』などがある。 デイリー新潮編集部
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