【古代史ミステリー】荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡が語る信仰と祭祀 異常な数の銅剣・銅矛・銅鐸が出土したのはなぜ?
「出雲には神話はあっても歴史が無い」と長く言われていたのですが、1984年と1996年に想像を超えた大発見がありました。 ■島根県で発見された大量の銅剣・銅矛・銅鐸 島根県出雲市斐川町神庭(ひかわちょう かんば)に広域農道を設置する工事が計画され、1983年に行われた事前調査の時、調査員が田んぼの畦道で須恵器の小さな欠片を拾い上げました。 これがきっかけとなった本格的な遺跡調査の結果、翌1984年に小さな谷あいの斜面から358本も丁寧に埋納された、はるかに古い時代の銅剣が発見されたのです。それまで数本づつ発見されていた銅剣の総数は全国で約300本程度でしたので、一挙に総数を凌駕する銅剣が一か所から出土したのです。 荒神谷(こうじんだに)遺跡の発見です。 まだ何かないかと地中探査をした結果、銅剣出土地からわずか7m離れたところで銅矛(どうほこ)16本と小型の銅鐸(どうたく)6個が出土しました。これも同じように丁寧に埋納されていました。 その後の慎重な調査の結果、出土した銅剣の344本に✖印が刻印されていることが判明します。ほとんどの銅剣に鏨(たがね)のようなもので刻印された✖印の意味は現在も不明ですが、昨年大きな話題になった吉野ヶ里遺跡から出土した石棺墓の蓋石に、やはり✖や♯などが数多く線刻されていたのを思い出します。 1996年には荒神谷遺跡から山を隔てた3.4kmという至近距離の谷あいで、やはり広域農道の工事中に、パワーショベルが掘り返した土の中からゴロゴロと銅鐸が発見されました。直ちに緊急調査をした結果、39個もの銅鐸がまとめて埋納されていたことがわかりました。それまで最大の銅鐸埋納地は滋賀県野洲市で24個の出土ですから、これを一挙に上回る個数でした。 縄文時代や弥生時代の人々は、現代の都道府県市町村という行政区分などもちろん関係なく非常に広大な範囲を行き来していますので、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡のような指呼の間は同一地域と考えるべきでしょう。 問題はこの両遺跡での埋納時期で、絶対年代を特定するには至っていませんが、出土品の編年研究からは、どちらもおおよそBC1世紀からAD1世紀の間ではなかったか?と推定されているそうで、中には西暦50年前後ではないかというピンポイントな説もあります。 昔は教科書に九州から中国地方西部は銅剣銅矛祭祀で、近畿を中心に銅鐸祭祀が行われていたと大雑把に載っていましたが、今はもう少し時代の変化によって分布が詳細になっています。 それにしても弥生時代の象徴的な祭祀具がまとまって同一地域からこんなに大量に出土するというのは、何らかの事情を感じさせるに十分です。 そもそも銅鐸は人里離れた山や谷合に埋納されているのが常なので、加茂岩倉遺跡の場所としてはうなずけるのですが、その埋納数が異常です。 荒神谷遺跡の358本の銅剣と16本の銅矛・6個の小型銅鐸も、ひっそりとした谷沿いの高台に、わざわざ、しかも整地した場所に丁寧に並べて埋納されていました。埋納の時には儀式もしたような形跡があり、少なくとも2000年間ひっそりと土中に納められていたわけです。 銅剣や銅矛は貴人の墓に多くて数本ずつ副葬されて出土するのが普通なので、こんなに大量の銅剣や銅矛をきれいに並べて土に埋めている様子は初めて見ました。 加茂岩倉遺跡に埋納されていた39個もの銅鐸や、荒神谷遺跡にまとめて埋納されていた大量の銅剣・銅矛・銅鐸の様子を実際に見ると、きっと誰も彼も同じことを思います。 「いったい何があったのだろう?」 古代から出雲には毎年全国の神々が集まって会議をするといわれています。もしかすると弥生時代の半ばごろ、各地の首長が村の宝器である銅剣や銅矛・銅鐸を持ち寄って、何か会議をしたのでしょうか? それにしても大切な祭祀具を土の中にひっそりと、しかも限りなく丁寧に埋めるという行為の動機は何だったのでしょうか? 祭祀具を埋めて二度と取り出さなかったということは、それまでの祭祀を終了したということでしょう。祭祀を終了するということは、それまで大切に敬っていた神そのものが替わったということではなかったでしょうか? 「祀り(=祭り)」は21世紀の現代でも実に厳かに行われます。私たちは伝統行事として拝見していますが、実は真剣な神事や仏事なわけです。私たちはそう思っていませんが、世界中からは「日本という国は驚くほどの宗教国家だ」と思われることがあるそうです。お正月に何百万人もの参拝者が詰めかける神社があったり、豆まきに大勢の人だかりができたり、ほかにも旅先に神社があれば拝んだりしていますね。 そういう風景を外国の方が見ると、「なんと信心深い国民だ!」と思うそうです。2000年も前の弥生時代の祭祀は今以上に真剣で、本気で神を信じて祟りを恐れたでしょう。その神が交代し祭祀自体が大きく変わるというのは、想像できないくらいの大変革です。おそらく武士の時代から明治に変わる以上の価値観の大変化ではなかったでしょうか? どうもそういうことが弥生時代の半ばにあったような気がします。根拠はありませんが、それこそがスサノオの出雲到来神話の元ではなかったのかなと思っています。妄想逞しく楽しめそうではありませんか!(笑) ここで気付くのは、この埋納が行われたのが卑弥呼登場のはるか以前だということです。邪馬台国や卑弥呼の時代が強調されがちですが、それは弥生のほぼ終末期のことで、数百年、もしくは1000年前後続いていたかもしれない弥生時代には、もっと注目されなければならない事件や政変が無数にあったのではないか? ということです。その雰囲気を伝えているのが神話なのかもしれません。 加茂岩倉遺跡も荒神谷遺跡も偶然の農道計画があったから発見されたわけで、まだまだこの周辺の土の中には未発見の重要な歴史の証言遺物が埋まっているはずですね。今こそ弥生時代の研究がますます重要な課題だと思えてなりません。
柏木 宏之