厳しくも温かい経営、久原で学ぶ 糸商で取引の近代化取り組む 杉道助(中)
杉道助が大阪の繊維会社、八木商店に入社し、采配を振るう前はどのような道をたどってきたのでしょうか? 大学卒業後、入社したのは久原鉱業でした。そこで過ごした新入社員時代に、倹約を心がけ、後輩を厳しく指導するも、人を大切にする経営を目の当たりにしたといいます。転職後は古い慣習を打ち破り、大きな改革を行ううえで、その教えはどのように生かされていったのでしょうか。市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
選挙法違反で逮捕 独房ではひたすら読書
杉道助の岳父八木与三郎は生来律義な人だったから選挙費用をノートに逐一記入していた。取り調べの際、それをそのまま提出し、洗いざらい自供したため、道助はもちろん、選挙事務長の高津久右衛門(大阪砂糖取引所理事長)、義兄の2代目藤本清兵衛(藤本ビルブローカー創業者)らにも累が及んだ。 この時、杉は独房の中で毎日300ページも本を読んだ。 「後年、学校を2度やったような思いで、いい時間を得たものだ」と語っている。大叔父に当たる吉田松陰が獄中で1年間に505冊読み、「獄中、いまだ困難を知らず」と語った故事を思い浮かべていたに違いない。そして15年後、杉はもう一度拘置所に入るが、それは後に譲る。
久原鉱業に入社 内外商社を相手に銅を売り込み、業績はうなぎ登りに
杉は、中学校の前半は山口中学、後半は萩中学に通い、1904(明治37)年慶応義塾予科に補欠入学する。2年上に津田信吾(後に鐘紡社長)1年下に小泉三信(後に慶應義塾塾長)がいた。 1909(同42)年慶応義塾理財科を卒業すると同時に同郷の先輩久原房之助の久原鉱業(のちの日立鉱山)に入る。杉の幼な友達鮎川義介(※)の姉さんが久原夫人ということもあって当初の三井物産志望が久原入りに変わったのかも知れない。杉が久原を訪ねると、即決で「よかろう。来い」となった。 鮎川義介(1880-1960) 昭和前期の実業家。日立製作所、日産コンツェルンの創始者。 折から久原鉱業の業績はうなぎ登りに転じる。道助は頻繁に横浜に赴き、内外商社を相手に銅の売り込みに追われる。船積みも杉の仕事であった。 「事務所では執務中は禁煙、鉛筆は竹製のパイプを継ぎ足して最後の最後まで使い切らないと新しいものと取り替えてもらえない。1銭、1厘のムダな支出もやかましく追求される厳しさはあったが、久原以下、幹部や先輩が後輩を指導する態度と心遣いはまた格別なものがあって事務所全体が一つの家族のように解け合っていた」(杉道助の生涯)