厳しくも温かい経営、久原で学ぶ 糸商で取引の近代化取り組む 杉道助(中)
大阪を代表する糸商、八木商店に入社 取引の近代化に取り組む
杉の久原鉱業時代は3年で終わるが、久原と対立したからではない。大阪の綿糸問屋、八木与三郎の長女義と結婚、八木に入社するためである。 繊維の町、大阪を代表する糸商、八木商店は岳父八木与三郎が創業した。与三郎は京都から大阪に出てきた時、叔父初代藤本清兵衛が経営していた大阪随一の米穀問屋に入り、投機性の高い米取引に従事するが、思うところあって、綿糸商、八木商店を創業する。以来、種々辛苦ののち財を成していった。1935(昭和10)年、与三郎が71歳の生涯を閉じたとき、親交のあった林市蔵(大阪堂島米穀取引所理事長から大阪府知事)は弔辞を述べた。 「全貌を一語の評に求むれば、八木さんは天、真の二字に尽きる。生まれたままの大人であり、老翁になっても、子供のような無邪気さであった。神様が造られた一番珍しい傑作といわなければばらぬ」 さて、八木に転じた杉の最初の仕事は、傘下に抱えるタオルの堺製織所の整理と浪速紡績(後の大和紡績)を泉州の石津に開設することであった。まさにスクラップ・アンド・ビルド。 杉がタオル工場に乗り込んで驚いたことは屋根の上に並べたタオルにせっせと水をかけている光景を目撃したことだ。 「聞けば明日大阪の問屋がタオルを受取りにくるので水を含ませているのだという。おかしなことをすると思っていると、次の日来た問屋がこれは水分がいくらあるといって水分論争をやっている。また私の就任披露の宴会に多くのタオル業者が集まったが、“堺のタオルなら水打ってこい”と歌い出し、私の方の販売係もこれに和して踊り出す始末」(私の履歴書) かつてニューヨークのウォール街で帝王と呼ばれたJ・グールド(1836-1892)が牛のブローカー時代のことだ。明日は市場に出すという日、牛たちに塩をたっぷりなめさせ、のどの飢きに耐えかねた牛たちが水を腹一杯飲み込み、体重がピンとハネ上がる仕掛け。J・グールドは内村鑑三の有名な「後世への最大遺物」にも登場する近代米国を代表する金豪。強引な企業買収、金投機で知られる。1869年9月の“暗黒の金曜日”、金暴落の原因はグールドの投機によるものだったという。 内村は「グールドは生きている間に2000万ドルためた。そのため彼の親友4人までを自殺せしめ、アチラの会社を引き倒し、コチらの会社を引き倒した。彼は死ぬとき、その金を自分の子供に分け与えて死んだ。グールドは金をためることを知って使うこと知らぬ人であった」と述べている。 さて、グールドもびっくりのタオルの水打ちを杉は即刻禁止するなど取引の近代化に取り組んだ。やがて大正バブルで巨利を博し、その反動で破綻するのは前述の通りである。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>