「あれはファウルだった」 天覧試合で長嶋茂雄にサヨナラホームランをくらった「村山実」が生涯言い続けた言葉の意味(小林信也)
村山実は真っ向勝負に徹した阪神のエース。“ザトペック投法”の異名とともに、「天覧試合のホームラン」が有名だ。ただし村山は劇的な一打を打たれた側だ。 【写真をみる】「長嶋茂雄」と「村山実」が史上初の天覧試合で対峙する貴重ショット 1959年6月25日、後楽園球場で行われた巨人・阪神戦を天皇皇后両陛下が史上初めて観戦された。
4対4の同点で迎えた9回裏、先頭打者・長嶋茂雄が左翼席にサヨナラホームランを打ちこんだ。史上初の天覧試合はあまりにも劇的な結末を迎え、日本中を興奮の渦に巻き込んだ。 「あれから、プロ野球がマイナーからメジャーになった」と長嶋が言い、「陛下が来られたことで、国がプロ野球を“認知”した形となった。それまでは“堅気の職業”と見られていなかったプロ野球が、あの一戦で変わった」と王貞治が振り返る。そして長嶋は国民的英雄となった。 その長嶋に痛恨の一打を浴びたのが、その春、関西大から阪神に入ったばかりの新人・村山だった。 「あれはファウルだった」と村山が生涯言い続けた話も広く知られている。 その言葉には誰も賛同しない。捕手だった山本哲也も、二塁を守っていた鎌田実も「あれは完璧なホームラン」と証言している。左翼線審を務めた当事者の富澤宏哉も、「判定するまでもない立派なホームランだった」と断言している。 テレビ中継には、三塁を回り、満面の笑みでホームに向かう長嶋のすぐ後ろを横切って、三塁ベンチに戻る村山の姿が映し出される。至近距離の交錯。通常はあまり見ない不思議なタイミングだ。そして村山は、ユニフォームの左尻のポケットにグローブを突っ込み、手ぶらで歩いている。その姿も印象的だ。 「あれはファウルだった」
契約金高い巨人を袖に
村山は、36年に兵庫県尼崎市で生まれた。住友工高でエースとして活躍した村山は、東京六大学のマウンドを夢見た。同僚と共に大阪中之島の大ビルで立教OBの面接を受けるとその場で「背が低い」「体が細い」とセレクションを受けることさえ認められなかった。そのOBは村山の手の大きさ、指の長さを見抜けなかったのだ。村山は長い指を生かして、高校時代すでにフォークボールを身に付けていた。村山が立大に入っていたら長嶋の1年後輩だった。 母の希望もあって地元に残り、関西大に進学。2年時に全日本大学選手権で優勝を飾った。西日本の大学が頂点に立つのはそれが初めての快挙だった。 3年時に肩を痛め、プロでの活躍に不安を感じた。熱心に誘ってくれる巨人に治療の相談をしたが、プロアマ規定抵触を盾に助けてくれなかった。親身に病院を紹介してくれたのが、関大OBで当時大阪タイガース社長の田中義一だった。卒業に際し村山は契約金2000万円の巨人でなく、800万円の阪神を選んだ。 「記録の神様」と呼ばれ、プロ野球の隠れた記録を発掘し続けた報知新聞の記録記者・宇佐美徹也は、独自の視点で村山の個性をあぶり出している。 著書『プロ野球記録奇録きろく』(文春文庫)の中に、《村山実(阪神)が先発で5回以上ノーヒットに抑えた試合》の一覧がある。公式戦で9度、日本シリーズで1度、日米野球でも1度の計11回。村山は生涯ノーヒットノーランを達成できなかったが、惜しい試合は幾度もあった。宇佐美が書いている。 〈34年(注・昭和)、プロ入り初登板の国鉄戦がその手始め。いきなり大投手金田との投げ合いになったことで村山のファイトは燃え上がり、七回一死まで無安打ピッチング。このあと箱田に内野安打され、米大リーグでも一度しかないデビュー戦ノーヒットノーランの快記録を逃がした。 村山は力をセーブしない。イキのいい投手はスタミナの配分など考えない、といわれるが、村山はまさにそれを地でいく男伊達投手だった〉 翌月の5月21日にはもっと悔しい快投があった。甲子園での巨人戦。村山は毎回の14奪三振で9回をノーヒットに抑えた。ところが、5回に失策で2点を失い、記録にならなかった。