東海道本線・沼津駅では、なぜ「駅弁」が売れたのか?
●軍隊と密接な関係だった、戦前の鉄道
―駅弁も盛況になった様子が伺えますが、その後、戦時体制に入っていくと、いわゆる「軍弁」も、大きなウェイトがあったそうですね? 宇野:昔の文献には、「桃中軒は軍隊向け弁当の製造に追われた」と記しているものがあります。(鉄道による軍隊の移動だけでなく)三島には陸軍の野戦重砲連隊が置かれていましたし、沼津には昭和16(1941)年から海軍技術研究所の音響研究部門が置かれたことで、弁当の販路は拡大されていったようです。ただ、戦況の悪化で、終戦直前、昭和20(1945)年7月17日には、沼津も空襲を受けることになります。 (参考)沼津史談会資料、沼津観光協会HPほか ―戦時下でも桃中軒が駅弁作りを休んだのは、沼津が空襲を受けたときくらい……そんな文献を読んだことがありますが? 宇野:ほとんど休んでいないと思います。桃中軒の工場はその当時、沼津駅前にありました(昭和3年築の西洋館)が、沼津空襲による被害は、本社社屋などの2階・3階は焼いたものの、1階の工場部分は無傷だったんです。ですので、その工場は稼働させて営業を継続していたと言います。その意味でも、軍隊さんの需要を最優先でやっていたということなんだろうと思います。
●「甘いもの」を欲した、昔の人たち
―一方で、戦後は戦後で大変だったのでしょうね? 宇野:食糧事情が厳しく、米がなかなか入らなくなり、代用食の弁当で凌ぎました。さつまいもを使った「いも弁当」や焼はんぺんにハムを挟んだサンドイッチ、私の祖父で4代目当主(2代目社長)となる宇野三郎が考案したサッカリン(現在は使用制限あり)とズルチン(現在は使用不可)を水に溶かして“アイスティー”と称した飲み物などを販売して、大当たりしたと言います。それだけ当時は、「甘いもの」を欲する方が多かったのではないかと思われます。 ―甘いものといえば「鯛めし」は、東海道本線の各駅弁業者が趣向を凝らして販売していますが、桃中軒ではどんな工夫をされていますか? 宇野:昔の文献で弊社社員が語っているところによると、他の駅弁屋さんは、タイの身をほぐしたような食感にしているのに対し、弊社は白身魚の身を完全に粉砕してしまう加工法をしていると。現在も基本的には同じで、マダイをはじめとした様々な魚の身を水にさらして、細かくフワッとした軽い食感の鯛そぼろに仕上げています。詳しい発売時期はわかりませんが、秀吉が3代目当主(初代社長)となった明治の終わりごろからある駅弁です。