なぜフリーメイソンは「あやしい秘密結社」扱いされるのか? 背景に「フランス革命」
陰謀論者たちに「世界征服を企んでいる」とみなされている秘密結社・フリーメイソンだが、はじまりは職人たちの集いであり、その後は進歩的知識人の団体にすぎなかった。そんなフリーメイソンが危険視されたのはフランス革命がきっかけだというが、どういうことなのだろうか? ■フリーメイソンの人脈を用いてルイ16世を処刑させたシャルトル伯爵 「フリーメイソン」と見れば「陰謀を企てる者たちの集い」という裏の意味が頭をよぎってしまう読者も多いでしょう。しかし、18世紀前半のイギリスで生まれ、王侯貴族から芸術家などにいたるまで、欧米全体で幅広い広がりを見せた当時のフリーメイソンのイメージに、その手のいかがわしさなど微塵もありませんでした。 フリーメイソンのイメージに大きな影を落としたのは、フランス革命だったといえるでしょう。 1773年、フランス王国のフリーメイソン本部の最高責任者に、王家の傍流の血筋の大貴族で、シャルトル伯爵ことルイ・フィリップ・ドルレアンという人物が就任しました。 しかし、フランス革命が勃発すると、ブルボン王家の傍流に生まれ、王家の血統が途絶えたときに「スペア」として男児を提供する家柄でもあったオルレアン家生まれのシャルトル伯爵は、ルイ16世の処刑を推進。 ルイ16世のことが本当は目障りだったのでしょうか、あるいは「フィリップ・エガリテ」、つまり「フィリップ平等公」などと持ち上げられて楽しかったのでしょうか、熱心なロビー活動を展開し、もちろんフリーメイソンの人脈も用いて議決させてしまったのです。 ■「自由・平等・平和」の理念から危険視されるように ルイ16世とその一族のかわりに、自分こそがフランス王家を継ぐ者となるつもりだったシャルトル伯ですが、実の息子が亡命してしまったことを理由に国家反逆罪を問われ(つまり革命家たちに使われるだけ使われて、罪をでっちあげられ)、断頭台の露と消えました。シャルトル伯、本当におめでたい頭の持ち主だったようですね。 このとき、自由主義・平等主義・博愛主義の重視を掲げていたフリーメイソンの理念が、フランス革命で掲げられた「自由・平等・平和」の理念と同じだったので、「フリーメイソンはとても危ない」という見方が一気に欧米中に広まってしまいます。この時代以降、フリーメイスンはいかがわしい秘密結社として危険視され、恐れられるようにさえなりました。 18世紀後半の神聖ローマ帝国(現在のオーストリア)でも、フランス革命勃発までは、ときの皇帝・ヨーゼフ2世が熱心にフリーメイソンの活動を擁護していたほどでしたが、フランス王家に嫁いだ妹のマリー・アントワネットを革命で失ってしまったことでヨーゼフ2世の態度は激変し、フリーメイソンもフランス革命につながる危険思想の集団として弾圧されるようになったのでした。 ずいぶんと古い話をすると思われるかもしれませんが、このあたりの歴史に、現在につながるフリーメイソン陰謀論者説の根拠があることは間違いないように思います。
堀江宏樹