山手線「駅名」ストーリー 品川(JY25): 実は新橋よりも先に仮開業した鉄道発祥の駅
なお、鉄道ファンの間では知られた話だが、品川駅は山手線の「起点」である。日本の鉄道を網羅した『鉄道要覧』(国土交通省監修)にも「品川駅が起点」で、渋谷・新宿・池袋駅を経由して「田端駅が終点」と載っている。実際、品川駅コンコースには山手線の起点を記す「0キロポスト」が設置されている。 このことから、一般に山手線と呼ばれる区間は、厳密には品川―田端間の20.6キロメートルであり、その他の田端―東京間は東北本線、東京―品川間は東海道本線の一部とされている。
品川駅が港区にあって品川区にない謎
もう一つ、有名な話が、品川駅があるのは「港区高輪3丁目」で、「品川区」ではないこと。そして、それはなぜ?ということ。 品川の駅名は、東海道の宿場町だった「品川宿」に由来する。日本橋から2里(約8キロメートル)にある交通の要衝地だった。 ところが品川「駅」は「宿」からはずいぶん離れた場所に建てられた。その距離、約1キロメール。旅行・鉄道関連の著作が多い内田宗治は、品川宿には宿泊施設や人家・商店も多く、線路と駅を建設するには立ち退き問題などが発生し、時間を要したためだろうと推測する。
1878年(明治11)年、東京が15の区に分割されると、品川駅は「芝区」の南端に組み入れられた。それに対して品川宿のあった場所は、東京の外の荏原郡に属することになった。駅と宿は、東京の内外に分かれてしまった。 その後、1932(昭和7)年に市域を拡張して20区を増設し35区となったものの、太平洋戦争で多くの犠牲者が出て人口が減少したため、各区の人口をできるだけ均等にしようと23区に再編された(1947/昭和22年8月)。このとき、すぐ南隣りに「品川区」があったにも関わらず、品川駅は港区に編入された。 このような一連の流れを経て、駅名は品川でありながら港区に立地するややこしい事態になったのである。
遅くとも13世紀には品川湊があった
一方、そもそも「品川」の語源は何なのか? 諸説あるが、おおむね次の2つである。 ・「品よき地形」であったため、隣り村の「高輪」に対して「品が輪」となった(新編武蔵風土記) ・目黒川の古名が「下無川」だったので転じて品川(南向茶話) (『続 駅名で読む江戸・東京』大石学、『東京の地名由来辞典』竹内誠編、『東京23区の地名由来』金子勤などを参照) 参考文献の多くは「下無川」説を有力視している。つまり、現段階では「川」という地形に由来した地名だった可能性が高い。 また、品川の地名の初出は『田代文書』(1184 / 元暦元年)にあり、この地を治めた豪族・品川氏の名も、1223(貞応2)年の『関東下知状』で確認できる(『東京の地名由来辞典』) 一般に品川は徳川家康が江戸に入って以降に発達したと考えられてきたが、歴史家の大石学はすでに12~13世紀に品川湊(みなと)が存在し、戦国時代には後北条氏のもと、海上交通の拠点として成長をとげたと指摘している。 都市史研究家の鈴木理生も、東京には浅草湊・江戸湊・品川湊の3つの湊が13世紀からあり、『円覚寺文書』などは船30艘が寄港し、廻船問屋もあったことを記している点に触れている(『江戸・東京の地理と地名』)。 むしろ家康は、自分が入府する以前の江戸に品川という豊かな交易地があることを知っていて、それを最大限活用して町づくりを行ったとも考えられる。つまり品川がなければ、江戸の成長もなかった―そう考えて良いほど重要な地であり、だからこそ、その後、日本有数の宿場町として発展したといえるのではないだろうか。